『偶然の恋、必然の愛』
【16】
罪と罰
全てを知り、そしてその全てを闇へと葬り去った。 しかし… 「カイル…僕は、僕の周りにいる方々、皆優しくてとても幸せです。でも…」 室内は再び二人だけである。 日が傾き室内はオレンジ色の光に包まれている。しかしそれもそう長い時間ではないだろう。 カイルは視線だけで話の続きを促す。 「まだうだうだと考えてるって思いましたよね。でも、どうしても考えてしまうんです。僕はこんなに幸せでいいんだろうかって」 「なぁ、リィ…お前は事実を消せると思うか?」 「事実を消す、ですか?」 突然の話題変換に一瞬対応が遅れる。反芻しながら瞬き二回分考えて、答えを出す。 「…あったことをなかったことには、できないと思います」 「俺は、そうでもないと思う。例えば…俺のこの左目はどんなに隠しても本当は紫だ。人々はこの目を見ただけで俺を恐れる。これは事実だ」 「それは…」 確かにカイルの言う通りだが、これは彼の一番奥底にある今も血を流し続けている傷なのだ。簡単に返事することではできない。 「だが、こうして隠している限り、人々は見た目だけでは俺を判断しない。これはただ隠しているだけなのかというと、そうでもない。相手がこのことを一生知らなければ、それはなかったも同じだ」 「……」 返事を躊躇っていると「気にするな」と言ってカイルはリィの頭を撫でた。 「お前は先ほど全てを闇に消し去り、マリオ・ディアナスの子であることを選んだのではないのか?」 「僕は…そうですね。僕にとっての父はマリオ・ディアナスただ一人です」 なるほど、そういうことかとリィは思う。自分にとっては消えない事実であったとしても、何も知らない人物から見れば確かに自分が選んだ現実は事実を存在しないものとすることだった。 「そういうことだ。ま、全てを受け入れるには時間がかかるだろうが、それはしょうがあるまい」 「カイルはどうやって…あ、すみません。やっぱりいいです」 カイルはどうやって思い悩むことから抜け出すことができたのか知りたくて聞こうとしたが、よくよく考えるとあまり立ち入って尋ねてよいことではないとリィは思い至る。 慌てて口を噤んでしまったが、カイルにはリィが何を聞きたいのかわかった。 「自分に罪がないことが理解できても、納得はできない、か。そうだよな、いっそのこと誰かが責めてくれれば許しを請うことも、罰を受けることで罪を消化することもできる。その方が確かに…楽だ」 「……」 まさに思っていた通りのことを指摘され、リィは瞬きすら忘れてカイルを凝視した。 「だがな、これだけは憶えておけ。罪がない者に罰を与えると言うことは、与えるものや真実を知る者たちを深く傷つけると言うことを」 「あっ」 「…何て、その過ちを犯したことのある俺が偉そうに言えた義理ではないか」 にっと笑ってカイルは「ちょっと出てくる」とだけ言い置いて部屋を出て行ってしまった。 室内から光は消えていた。 まだ幼かったあの頃、俺は他の全てを忘れるかのように剣の修行に打ち込んでいた。 『お前がそうやって断罪を求めるような激しい修行をするのはお前の勝手だから俺は止めんが、それを兄貴には知られるな。お前がそうし続ける限り、お前は兄貴を傷つけ続けるることになるんだぞ』 『え!?』 剣の師匠であった彼が何を言ったのか、当時の自分にはすぐに理解できなかった。 『何を驚く? お前の兄貴は罪のないお前の心が傷ついているのを知りながらどうすることもできなかった自分を恨んでいる。だからお前の心が未だ血を流し続けていると知れば、兄貴も同じことになるだろう』 『そんな! 兄上は俺にとてもよくしてくれたのに…』 彼の言い分が俄かには信じられなかった。 『だが、兄貴はそれでは足りなかったんだと。お前ら、こんな話は自分たちでしろよな。何たって俺を間に挟むんだか…』 『…ごめん』 『まあいいさ。とにかくな、罪のない者を断罪すると言う行為は裁く者や周りの人間を傷つけると言うことだ。ま、俺ははっきり言って部外者だからお前の修行に付き合ったところで微塵も傷つきはしないがな。じゃ、続き始めるか』 (あの人は俺が自分で自分を痛めつけていたのを知っていた。そして俺がそうすることしかできないことも知っていて付き合ってくれた。だから…) カイルは一瞬、陽の沈んだ空を見上げてから、目的の物を求めて一人城下町へと足を伸ばした。 僕は、僕自身に罪がないことを知っている。でも僕が存在しなければ、こんなことにならなかったのも…事実。 僕が僕を否定することは、僕を産んでくれた母の想いを否定することになる。でもできれば違う未来を選んで欲しかったなあ、なんて都合のいい我侭を思ってみたりもする。 ああ、母はそれでも自らの希望を叶えるべく、数少ない選択肢の中から最良の道を選んだのだろう。 ならば神殿のような本当の父に近い場所にいたのがいけなかったのか。 しかし養父の選択もまたこれしか道がなかったのだろう。なまじ強大な魔法力を有していたがために、神殿か魔法省に入らざるを得なかった。 ならばどちらがより彼から遠いのかと言えば神殿だった。だから自分を含めて周りの皆が不思議に思っても神殿にいることを命じたのだ。 きっとその選択は養父を苦しませただろう。 もし自分が彼の本当の子であったなら、大抵の親がそうであるように彼は喜んで普通では得ることのできない力を持った我が子を魔法省に預けたに違いない。 巡り巡って考えると、やはり自分の存在が事の発端だ。 「何だ、リィ。起きているなら灯りくらい灯したらどうだ」 カイルが出かけてからどのくらい時間が経ったのか判らないが、室内は完全に真っ暗だった。カイルが灯りを点けてくれたおかげでようやくお互いの顔が見えるようになる。 カイルはすっとリィに近づくと、前髪を掻き揚げあらわになった白い額に口づけた。 「皺が寄ってるぞ」 「あ…」 考え込んでいたのが顔に出ていたらしい。 またぐるぐると考えているのがカイルにバレてしまった。 「俺はな…十五年前初めてお前に会うまでは自分を消すことしか考えていなかった。罪がどうのこうのと言う以前の問題だな」 カイルは持ってきた洗面器や水差し、タオルなどをテーブルに並べて行く。 「で、お前に出会って俺は初めて本当のイミで自分のこの目を受け入れることができた。まあその直後にはこうして封印されたわけだが…」 そして懐から小さな袋を取り出す。 「そんなことで起きてしまったことをなかったことにはできなかった。だから俺は全てを忘れるかのような、それこそ血の滲むような剣の修行に励んだ」 袋の中身は…ピアス。 「だが俺の剣の師匠は俺の行動の理由を見破っていた。『お前がそうやって断罪を求めるような激しい修行をするのはお前の勝手だから俺は止めんが、それを兄貴には知られるな。お前がそうし続ける限り、お前は兄貴を傷つけ続けるることになるんだぞ』そう言われた」 テーブルに並べた物の中から選び取った針を燭台の炎で炙る。 「そして俺に罪のない者を断罪すると言う行為は裁く者や周りの人間を傷つけると言うことを教えてくれた」 空いている方の手でリィの顎を掴み、右の方を向かせる。 「その上で彼は自分が部外者だからお前の修行に付き合ったところで微塵も傷つきはしないと言って俺の断罪に付き合ってくれた」 左頬にかかる銀糸を梳くって、後ろへ流す。 「だから今度は俺がお前に付き合おう」 耳元での囁き。そして耳たぶに触れた柔らかな感触。 「お前はこの痛みを憶えていればいい」 ぷつっ 「っ……」 焼け付くような痛みに声を上げそうになったが、顔をしかめてそれを堪えた。 カイルの指先を真っ赤な血が伝う。 「お前が罰を受けた証だ」 穴を開けるための針を抜き、代わりにピアスをつけた。 「これがあればお前は今の痛みを忘れないだろう」 鏡を手渡され、リィは中を覗き込んだ。 まだ血で汚れた耳たぶに嵌っているのは…暁色のピアス。 「お前がこれを見て自分の罪を忘れないように、俺もこれを見て自分の罪を忘れない。だから俺がこうしたことで傷ついただの何だの考える必要はないからな。これは俺自身のエゴでもあるんだ」 「カイル…ありがとう…」 どこかホッとしたような笑みを浮かべ、リィは痛みのせいではない涙を静に流した。 「で、どこまで話したっけ?」 「神殿に戻ったところまでです」 夕食を終えた二人はまたリィの部屋に戻り、飲みながら昔話に花を咲かせていた。 カイルが新たな酒を注ぐために話を一時中断していたのだ。 「そうそう、お前を落とさないように必死になって担いで戻ったんだ」 「…すみません」 「謝る必要はないさ。お前は俺の傷を治して気を失っていたのだから。それに必死になってたのは、今と違って体格が然程かわらなかったからだぞ。今なら抱き上げるのなど簡単だ」 カイルは少々酔っているのか、話とはズレた部分でこだわっているようだ。 どこか子供っぽいこだわりにリィはくすっと笑った。 「そう言えばお前、治癒魔法はあの時が初めてだったんだってな。後から聞いて吃驚したぞ」 「それは僕も同じです。あの時までそっち系の力はなかったのですから」 さらりと衝撃的なことを言われてカイルの顔から表情が抜け落ちた。 「なかった? それにしては見事に治ったぞ?」 「…必死でしたから」 「…必死にやったからって、できるもんじゃないだろう?」 「うーん、それはまぁ、そうなんですが…でも他に理由を思いつきませんし」 「…それでできてしまうお前ってやはり凄いな」 これ以上このことについて尋ねても答えは出ないだろうと判断したカイルはそう締め括ろうとしたのだが。 「だから、必死だったんですよ」 苦笑交じりでリィに話を蒸し返された。 「だがなぁ…いくら必死って言ったって、俺は死にそうな怪我をしたわけじゃなかっただろ。こう言っちゃ何だが、犬に腕を噛まれただけだぞ」 「何言ってるんですか! かなりの傷でしたよ。それに僕を庇ったせいだし…カイルには僕のせいで怪我を負わせてばかりですね」 リィはカイルから目を逸らし俯く。 「お前こそ何言ってるんだ。そもそも十五年前は俺がお前について行ったせいだし、この間のはお前が剣を使えるかどうか俺がちゃんと確認しなかったから、あんなことになったんだろうが。お前のせいじゃない」 「しかし…」 「あー、もう、どっちの時もお前がすぐに治してくれたから、それでいいんだ」 まだ俯き加減のリィの頬を両手で挟んでカイルは上を向かせる。 「これ以上ぐちゃぐちゃ言うなら、その口、塞ぐぞ?」 どうやって、かは言わずもがな、である。 リィは頬を赤くして首を竦めた。 「話を戻すぞ。…俺は戻る間、叱られるのではないかとそればかり考えていた。勝手に部屋を抜け出した上に、仕方のなかったこととは言え、力まで使ってしまったのだからな。でもまあ、神殿が見える頃には叱られることには諦めがついた。だが…」 そこで言葉を切ってカイルはくいっと酒を呷る。 「俺が叱られるということはお前も叱られるんじゃないかと思い至ったんだ。そう思ったらそれまでよりも更に怖くなってな…俺を探す兄上や他の人が見えたときには、はっきり言ってパニック状態だった」 当時の状態を思い出したのだろう、カイルは首を竦めた。 「僕も叱られると思って怖くなったんですか?」 何故そんな心境になるのか、今一つ理解ができないリィは首を傾げている。 「何と言っても、あの頃のお前はそれはそれは可愛かったからな」 「はあ? …そう、ですか?」 「ああ。まあ今は可愛いと言うよりは美人だが」 口の端を歪めてニヤリと笑うカイルにリィは困惑の表情を浮かべる。やはり自分の容姿にまつわる形容詞にはあまり納得がいっていないらしい。 「冗談はいいですから、本当はどうなんですか?」 「冗談ではないのだがな…」 本気で言っているのだがこれ以上このことについて語り合っても平行線のまま時間だけが無駄に過ぎていくことだろう。 カイルはこの件についてリィを説得することはあきらめた。 「一応だが、俺は王子である自覚はあった。で、お前はどれほど位が高くても貴族の子供だ。そんな二人が一緒にいて俺が怪我をしたとあれば、叱られるのは俺ではなくお前になるのではないか?」 カイルの問いにリィはしばし考えて「確かにそうですね」と頷いた。 だが当時そのことで誰からも叱られた記憶はない。 「俺の怪我は俺のせいなのに、お前が叱られるなんて理不尽なことをさせるわけにはいかないと思った。だが、そのことを兄上や大人たちにちゃんと説明する自信もなかった。そんな思いがあったから、どうしても兄上の元へは行けなくなってしまって…そのときに兄上に代わって出てきたのが当時神殿にいた義姉上だったんだ」 「クレア様?」 確かにクレアがレオと知り合ったのは神殿にいた頃だと聞いている。 「義姉上はしゃがんで俺と目線を合わせた上で「どちらも叱らないからおいで」と言ってくれた。それを聞いて俺もやっと気が抜けてな…次に気がついたら、ベッドの上だったと言うわけだ」 「目線を合わせて話してもらえると、安心しますからね」 「ああ。しかしそれだけじゃないぞ、義姉上の凄いところは」 すっと顔を近づけてカイルは辺りを窺う。 「兄上を叱り飛ばしたんだ」 「れ、レオ様を、ですか!?」 当時のレオはまだ王子だったとは言え、大国の第一王子だ。そんな彼を叱り飛ばす? 内容が内容だけに、室内には二人しかいないと判っていても、お互い顔を近づけて小声になる。 「二つあるのだが、一つは怯えている子供を上から押さえつけるなと。萎縮して何も言えなくなるに決まっているだろう、と丁度俺が目覚めた時、兄上に食って掛かってた」 「食って掛かる…」 「それには兄上もたじたじだったぞ。その上、義姉上はこの目の封印を止めろと言ったんだ」 「あの、カイル、ちょっと待ってください。そもそも何故クレア様は神殿にいらっしゃったのですか?」 クレアが神殿にいたことは知っている。だが、力を有しているとは聞いたことがない。シーヴァの地方貴族の娘であったクレアが何故神殿にいて、何故大国の王子たちと知り合うことになったのか。 リィにはその接点が全く見えない。 「ああ、そうか。お前は神殿では会ったことがなかったのだな」 リィの訝しげな表情にカイルは彼が何も知らないことに思い至る。 「義姉上も力を持っているからな」 「クレア様が? しかし、そんな話聞いたことが…」 ない。大国の王妃――結婚当時は王子妃であったが――ともなれば例えどんな小さなものであっても力を持っていれば噂に上るだろう。増してや、彼女はこのシーヴァ神殿に在籍していたこともあるのだ。 「それはそうだろう。義姉上の力は相手の力をゼロにしてしまうだけだからな」 「ゼロ!?」 初めて聞くその力に、リィは目をまん丸にする。 「要するに相手の魔法力を奪うだけの力なのだが…これが準備に随分手間取るものでな、はっきり言って実戦にも向いてはいない。義姉上曰く『これ一つでは、あってもなくてもどちらでもいい力』だそうだ」 確かにカイルの言うとおりだ。魔法力も生まれつきのものなら、どんな魔法を使うのに向いているのか――同じ系統の力ならば、修行で上のランクのものを習得することもできなくはないが――と言うのも生まれつきのものなのだ。 クレアの持つ力がそれ一つならば確かに使い道があるようには見えない。力を無くしたいと思っている者の話など聞いたことがなかったからだ。 「と言うことは、クレア様は…」 「ああ。あの時義姉上が神殿にいたのは俺のためだったんだ。最初はサナトリアで目の色だけこっそり変えてしまおうとしたんだが、上手くいかなかった。目の色が違うから力があるのか、力があるから目の色が違うのか…ま、たまごとひよこみたいなもんだな。 とにかく兄上は力を封印すれば目の色も変わるんじゃないかと、そう思ったわけだ。だがわが国には俺の力を封じるだけの力を持った人間はいなかった。 そこで魔法力ではかなりの実力者を出しているシーヴァへ内密に尋ねたところ、義姉上を紹介されたというわけだ」 カイルは簡単に説明したが、きっとそんな簡単なことではなかったのだろう。 二番目とは言え、王子の目が紫色だったのだ。サナトリアでも公にはされないトップシークレットだったに違いない。政治的、外交的に色んな取引や駆け引きがあったのはまず間違いない。 だが、今の二人には関係のないことだ。 「そういうわけだったんですか」 「で、義姉上は俺の力を無くしてくれと頼まれて、また兄上に食って掛かった」 「二つ目、ですね」 「そうだ。で、義姉上は力はただの力であって、それ自体に善悪はない。それを決めるのは力を使う者が決めることだ。力を持って生まれたからには、何らかの理由があるはずだ。現に今日だって野犬に襲われたがどうにかすることができた。ならばこの先、いつ必要になるかもしれない力を無にするなんてどうかしている。とそれはそれは凄い剣幕で兄上にまくしたてていた」 「クレア様がまくしたてる…」 先日会ったあの穏やかそうなクレアがまくしたてるとは…どうも想像がつかない。 リィはやや複雑な顔をして考え込んだ。 「想像つかんだろうがな。それで一通りまくしたてた後に義姉上は俺の力はこの目に宿っている。しかしあんな御伽噺を真に受けることはない。でも目の色を変えたくてどうしてもそうすることが必要だと言うなら、一時的に隠してしまえばいいとこのピアスを作ってくれたんだ」 「だからそれを外した時だけ元に戻るんですね」 「そういうわけだ」 ようやく顔を近づけてのヒソヒソ話を終え、カイルは椅子の背に体を預けた。 「なるほど、劇的なわけだ…」 話を聞き終えたリィはボソッと一言漏らした。 「劇的?」 今までの話と何ら関係なさそうな呟きにカイルはおやっという顔をする。 「いえ、大したことではないのですが…その人も詳しい理由なんて知らずに言っただけだとは思いますが、以前、レオ様とクレア様の出会いを話してくれた人が二人の出会いは劇的だと言っていたものですから」 「まさにその通りだな。少なくとも兄上にとってはかなり衝撃的な出会いだったらしいぞ。なんせ王子である自分を叱り飛ばす女性に初めて出会ったのだからな。まあ、後から聞いた話では、義姉上は兄上の身上を知らずにやったらしいが…兄上にして見れば、きっと新鮮だったのだろう。結婚したいと思うほどにな」 「ではカイルがキューピットだったんですね」 くすっと笑われてカイルは柄ではないと言わんばかりに肩を竦めた。 「カイルが王子様だったのでは…仕方ありませんね」 「何がだ?」 また急な話の転換にグラスを持ち上げようとしていた手が止まった。 「カイルはあの時、名前を教えてはくれなかったでしょ。その上、事件後「暁君」がどこの誰でどうなったのか、誰も教えてはくれなかったのです。父もそうでした」 「そのことか。確かにな…俺は兄上に迷惑をかけたくない一心で名を言えなかったし、誰も教えてくれなかったのは…圧力をかけていたのだろうな」 カイルは自嘲的に苦笑した。 「では、今回の件で会えなければ、もう一生会えなかったかもしれませんね。そう考えれば悪いことだけではなかった」 リィは前向きに考えることにした。 「リィは強いな」 カイルはすっと手を伸ばしてリィの頬を撫でた。 「カイルがいてくれたからですよ」 撫でられた頬がくすぐったかったのか、リィは首を竦めてその手の上に自らの手を重ねた。 「しかし俺はお前に名を告げるのに十五年かかったぞ?」 「だから、それは仕方のないことでしょう。カイルがサナトリア王子として生まれ、今となっては王弟殿下なのですから」 紫目の御伽噺が人々の間に浸透しているのだ。 それが事実だろうが虚構だろうが、そんなことは関係ない。王子の目が紫だとわかれば、それは何の罪もないこととは言え、スキャンダルになってしまっていただろう。 だから再びリィに会うことが難しかったのも…仕方がないことなのだ。 リィはそう思っていたが。 「いや、そうではない。俺がその気になればこっそりお前に会いに来ることくらい、簡単にできたんだ。兄上が王位を継いでからは、かなり自由に出歩くことを許されていたからな」 リィから手を離し、カイルはグラスを取り上げた。 「お前と離れてから、時間が経てば経つほど…お前が言ってくれたことが、ウソだったんじゃないかって気がしてな。もし本当だとしてもお前はあの話を知らなかっただけかもしれない。次に会ったときには…嫌われるかもしれない。そう考えると怖くて…会いには行けなかった」 すまなかった、と最後に小さく言ってカイルはグラスの中身を一気に呷った。 リィはそっと立ち上がり、カイルの正面に回ると両手で彼の頬を挟んだ。 「僕は、あなたが好きですよ。昔も…」 そしてすっと身を屈め、左の瞼に触れた。 「今も」 一度離れた唇は、次にカイルのそれと重ねあわされる。 ただ触れるだけの、しかし厳粛な儀式のような口付け。 離れてしまった温もりを惜しむように見上げて微笑むとカイルは小さく頷いた。 リィも幸せそうに頷くと、どちらからともなく再び重ねあわされる。 しかし今度のそれは先ほどのよりずっと情熱的で熱いものだった。 |
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