第5幕 「十日夜(とおかんや)」
【1】
聖陵祭コンサートで『謝肉祭』を振ってから暫くの間、僕の周りは少し騒がしかった。 というのも、ツアー中で聞きに来られなかったグランパが、話の弾みで音楽評論家の友達にチケット回しちゃって、その人がまた音楽専門誌に大げさな記事を書いてしまった所為で、取材申し込みが殺到してしまったから。 僕の負担にならない範囲で…と、ゆうちゃんと父さんと直人先生が相談して、2社の音楽専門誌だけに絞って取材を許可して、その他は――なぜか普通の週刊誌まで混じってたんだけど――お断り。 それでも僕にはかなりの苦痛で、ゆうちゃんが側にいてくれなかったら途中棄権なんてあったかもしれない。 とにかく、知らない大人なんて恐怖以外の何ものでもないし、矢継ぎ早に質問されたり答えを待たれたりしたら、僕はもう、何を話していいのかわからなくなってしまう。 まして相手は、打てば響くような応答を僕に期待していて、それが余計に僕を追い詰めて。 まあ、期待していたような僕――桐生渉でなければ、きっと次からはこんなこともなくなるだろうと思っていたんだけど、送られてきた原稿を見て、また激しく疲れてしまったんだ。 だって、こんなに持ち上げる必要がどこにある?ってくらい持ち上げた挙げ句に、普段の僕が、シャイな一高校生で、そのギャップがとかなんとか、つまり、本が売れればいいんだな…って内容で。 管弦楽部のみんなは、『端的に渉の特徴掴んでるよな』なんて言ってたけど、それって結局、最近よく言われてる『指揮台に乗ると別人』ってことに過ぎない。 僕は、指揮台の上で違う人間になってるつもりはなくて、ただ、やりたいことが溢れてくるから、その本能に従ってるだけ…なんだけど。 演劇コンクールとか、その他の行事も乗り切れたのに、終わってからの方が大変なんて思いもしなかった。 だからちょっとだけ、体調を崩して1泊2日で静養室の住人になってしまったんだけど…。 普段からこの学校では、僕みたいな慢性疾患を持ってる生徒を対象に、月イチで校医の先生の診察が行われている。 僕もいくつかの薬がずっと必要な状態が未だに続いてるので、毎月見てもらって、薬をもらって、もし思わしくないようなら病院へってことになってる。 まあ、いい加減僕も静養室の常連だけど、僕なんかよりずっと深刻な病気を持っている生徒もいるらしくて、大変だなあって思ってる。 病気の本人も、先生たちも。 保健棟は中で2つに分かれていて、ひとつは普通の学校にあるような保健室。 一時的に休めるベッドがいくつかあって、斎藤先生じゃない保健の先生が常駐してる。 もうひとつは静養室って言われてる場所で、ここには立派な診察室と、一式の設備が揃っていて、入院扱いみたいな状態になる個室がいくつかある。 僕は大概点滴が必要な状態になっちゃうので、いつも保健室じゃなくて静養室送りなんだけど。 で、今回も、聖陵祭後の色々でちょっと疲れてた時に診察があって、血液検査の結果もボーダーラインって感じだったので、とりあえず1泊2日で点滴して様子を見ることになったんだ。 僕としてはそんなにしんどくもなくて、『え〜、なんで〜』って感じだったんだけど、ゆうちゃんは『取材なんて全部断れば良かったな。ごめんな』って言い出すし、英と和真も、演劇コンクールで無理させてしまったとか言い出すし、ほんと、困った。 直也と桂は、聖陵祭の準備期間中、ほとんど一緒にいることが出来なかったから、護ってやれなかったとか言うし。 毎回みんなに気を遣わせちゃって、ほんと、もう少し健康にならなくちゃ…。青汁でも飲もうかな。 あ、それは野菜不足か。 眠くもないのに朝10時頃からずっと静養室のベッドにいて、一応要安静だから本も楽譜も持ち込み禁止。 でもこっそりiPod持ってきちゃった。楽譜が無くても、音を聞けばある程度覚えられるから。 もう覚え始めないと、12月の定演まで2ヶ月ちょっとしかない。 動いてないからお腹も空かなくて、お昼もあんまり食べられなくて、斎藤先生には『ちゃんと食べなきゃもう1泊伸びるぞ』って脅かされたり。 もう1泊は絶対イヤだから、なんとか無理に食べようとしていたら、先生がプリン持ってきてくれたんだ。 これなら食べられるだろうって、笑いながら。 すごく嬉しくて、お礼を言ったら、情報源はなんと英。 『英が、渉の好物はママのプリンだって』 先生ってば、笑いを堪えながら言うんだ。 プリンは大好きだけど、英ってば、なんでわざわざ『ママの』とか余計なこと言うかなあ。 だいたい、最近はママなんて呼んでないし。 ちゃんと母さんって呼んでるの、英だって知ってるクセに。 放課後は、古田先生が来てくれた。 「気分はどうだ?」 いつもキリッとしてる先生が微笑むと、なんだか凄くいい感じ。 「全然大丈夫です。今すぐでも帰れるくらいです」 必死で訴えたら、先生は笑って、『明日には帰れるから、もうちょっと辛抱な』って頭を撫でてくれた。 「今、校医の先生と話をしてきたんだが、血液検査の結果は、疲れが原因の一過性のものだろうってことだった。来週もう一度検査してみようって」 え〜、また来週採血? やだなあ…。 「やだな…って顔だな、渉」 先生が小さく笑う。 「浅井先生には報告しておくから。斎藤先生の言うことを良く聞いて、イイコにしてろよ?」 「はあい」 僕の不服そうな返事に先生はまた笑う。 「先生」 「ん? なんだ?」 「あの…ありがとう…ございます」 多分、僕がクラスで一番手の掛かる生徒で、いつも先生の仕事増やしてる感じ。 「お前は奈月によく似て、優しいな」 顔以外で似てるって言われたことないから、ちょっとびっくりで、かなり嬉しい。 「奈月も、見た目や出来の良さだけじゃなく、人柄でみんなに愛されていたからな」 僕も、そうなれたら嬉しいな…。 ちょっとどころでなく照れた僕の頭をまたそっと撫でて、先生は『また明日な』って言った。 先生が部屋を出てからほんの少し。 僕は、思い出して先生の後を追おうとした。 ゆうちゃんに報告するって言ってたから、明日の部活のことで、伝言お願いしようと思って。 まだ間に合うかなと思って、僕はそろっとベッドを出で、そっとスライドドアをほんの少し開けた、その時。 「和真、来たのか」 古田先生の声。…って、なんだろ、この違和感。 「あれ、篤人くん。渉の様子見?」 篤人くん? …そういえば、古田先生、名前が篤人だっけ。 でもなんで和真が先生を名前で? そこで僕は最初の違和感の正体に気がついた。 先生も和真を名前で呼んでるんだ。 いつもは『安藤』って呼んでるのに。 しかも、呼んでる声も、なんだかいつもと違って柔らかい。 先生はいつも、はっきりすっきり話すから。 何で? 僕はそっと顔を覗かせた。 ちょうど廊下がT字になる角で、先生と和真が向き合ってる。 2人は少し言葉を交わして、別れたんだけど…。 古田先生の背中を見送る和真の瞳は、今までに見たことのない色をしていた。 「…渉…」 あわわ。 急にこっちを向いた和真と、顔を引っ込め損ねた僕と、目が合ってしまった。 どうしよう…と慌てた僕に、和真は少し寂しそうに笑った。 僕をベッドに座らせて、自分は丸椅子に腰掛けて、和真はパスケース――校内で現金を持たなくていいようにIDカードが発行されてるから、みんな財布じゃ無くてパスケースをもってる――の内側から1枚の写真をとりだした。 和真が見せてくれた写真には、そんなに変わってないけど、微妙に若い、古田先生の姿があった。 そしてその腕にはまだ生まれたてみたいな赤ちゃんが抱かれていて、先生は見たこともないくらいに愛おしげな表情で赤ちゃんを見つめている。 先生は独身のはず、だけど。 「この赤ん坊、僕なんだ」 「えっ?!」 こんなに驚いたの久しぶりってくらい、びっくり! 「和真、センセの隠し子?!」 「ぶっ」 和真は吹き出してから大笑いを始めた。 「そ、それ、さいこ〜」 和真、あんまり笑うと斎藤先生に聞こえちゃうよ…。 「ま、直也のお父さんと同級生だから、なくはないけど、それにしても、隠し子説は初めてだよ」 「…ごめ〜ん」 思わず小さくなっちゃう僕。 だって、先生ってば、本当に愛おしそうに見つめてるんだもん。 まるで、僕の父さんたちが僕を抱いてる写真みたいに。 だから、翼ちゃんが和真を抱いてる写真なら納得なんだけど。 「篤人くんはね、僕が生まれる前から、僕んちに出入りしててさ。うちの家族とのつき合いも僕より長いってわけ」 「知り合い…だったとか?」 何かの縁で親戚同然のつき合いとかって、別に不思議じゃないから。 「翼っちと、仲が良かったんだ。篤人くんが高2の時、翼っちが担任で」 確かその時、ゆうちゃんと葵ちゃんも同じクラスだ。 「卒業してからも、ずっと一緒にいるくらい」 …それって…。 「チビの頃の僕にはその意味はわからなかった。けど、ここへ来て、僕は気づいてしまったんだ。2人の…関係に」 そう…だったんだ。 でも、翼ちゃんと古田先生がそう言う仲だっていうのは確かに驚きだけれど、その事実よりも、今の僕には、和真の無理な笑顔の方が気になって仕方が無い。 「で、篤人くんが翼っちを追って、ここの先生になったんだって、うちの母さんと伯母ちゃんが話してるのを聞いちゃったのが、中2の夏休み」 どこか、他人事を話してるような和真の口調は、大事な何かに蓋をしているように、平坦で感情が薄くて…。 でも、ふいに目を細めて何かを慈しむように微笑んだ。 それは見惚れるくらい綺麗で。 「だから僕は、浅井先生を追って来た渉の気持ち、よくわかったんだ」 …そっか…和真も、先生を追って、来たんだね。 「和真…辛かったね」 「いや、それがそうでもないんだ」 そう…かな。 「だいたい生まれる前から負けてた訳だし、なんか、諦めだけはあっさりついたんだ。ただ、ぽっかり空いた穴を埋めようとはこれっぽっちも思わなくて…」 そう言う和真の目も、なんだかどこか遠いところを見ているようで、捉えようのない感じ。 ポッカリ空いた穴を埋める気持ちにならないのは、きっと、まだ引きずっているから…なんじゃないかな。 ううん、引きずってなくて、本当に諦めていたとしても、辛かったと認めない限り、穴は埋まらないんじゃないだろうか。 「和真…」 「ん?」 「僕みたいなのが言うのはおこがましいんだけど…」 「なに?」 何言い出すんだろうって、和真はちょっと笑い顔。 いや、本当に僕みたいに自分の恋愛すらコントロールできないのが言える立場じゃないんだけど。 でも、何故か僕はこの時、僕が言わなくちゃ…って思ってしまったんだ。 「和真、辛いんだよ」 「……渉…」 僕に断定されてしまって、和真は目を見開いたまま固まった。 「失恋して、辛くない事なんて、ないと思うんだ」 まして、和真は無自覚なうちから数えて、本当に長い間、ずっとひとりに恋をしてきたのだから。 「辛くても辛くないって言って、泣きたくても泣かないのなら、それは本当に失恋したって認めてないんじゃないかなって…」 和真は言葉も無く、僕を見つめている。 「僕も…無くしてしまったと思ってるくせに、認めたくなくて、そのうちにちゃんと周りを見なくなっちゃった。自分の気持ち、ちゃんと認めないと、どこへも行けないんだ。ずっとそこに取り残されたままになっちゃって…」 酷いこと言ってるって、思うんだけど、でも、大事な和真がずっとここに留まったきりになってしまうのがどうしてもイヤで、僕は必死で言葉を継いだ。 「認めて…ない?」 そんなはずは…と、小さく呟いて、和真はそのまま視線を固めてしまう。 「そう。ほんとに好きだったんなら、無くして悲しいって、泣いちゃえばいいんだよ。辛くてしんどいって、口に出しちゃえばいいんだよ」 って、なんで僕が先に泣いてるのか、訳わかんないけど。 「辛い…? 僕、が?」 「そう。辛いの」 物わかりのいい、大人な和真でなくっていいんだから。 「…そっか…僕……辛かったんだ……あはは…」 僕にしがみついて、和真は静かに、でもたくさん泣いた。 ☆★☆ その夜。 検温とか色々しに来てくれた斎藤先生に、意外なことを言われた。 「渉、ちょっと大人になったな」 え? 僕が? どこが? 「あの、えっと」 何のことだろうと思ったら。 「あの安藤を泣かせて慰められるなんて、並みの人間には出来ないぞ」 うわっ、やっぱり斎藤先生にはバレてたんだ! 大変! 「あ、あの…っ」 「ああ、心配するな。理由なんてどうだっていい…って言うか、知らないけどな。ただ…」 先生の言葉が本当かどうかは別にして、でも先生は話の内容に突っ込む気はないって僕に知らせてくれたから、僕はちょっとホッとした。 「安藤は多分、あんな風に自分をさらけ出せたのは初めてじゃないかと思うんだ。あいつは年齢以上に大人で、周囲の本物の大人ですら、ヤツに頼っていた部分があるからな」 それは、なんか、よくわかるかも。 「渉は前に、安藤に助けられてるって言ってたが、お前だって十分、安藤の手助けになってるんじゃないか? 今日のことだけでなく」 え、そんなことは絶対無いと思うんだけど。でも…。 「僕、和真が大切なんです。だから、和真が辛いのは、イヤで…」 そう言った僕に、斎藤先生は優しく笑って言った。 「そういうところ、奈月によく似て優しいな」 あ…それは、昼間に古田先生にも言われたこと。 本当に、そういうところも葵ちゃんに似てるなら…嬉しい。すごく。 |
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