第4幕 「星月夜」
【4】
今夜も英は音楽準備室で勝手に珈琲を淹れていた。 「なあ、ちょっと聞いてもいいか?」 「ん? なんだ?」 一応祐介の仕事が一段落するのを見極めているようで、そう言う気が遣えるほどに成長したんだなあ…と、もちろん口には出さないが、嬉しいには違いない。 「麻生先輩のお父さんのこと。祐介、同級生だったんだろ?」 「ああ、中学の頃は管と弦で接点が少なかったけれど、高校時代は親しかったな。葵と仲が良かったから、一緒にいる時間が長かったからだろうな」 葵が好きだと公言し、時間の限りひっつき回していた隆也は、中学の頃と高校になってからの印象は随分変わった。 おそらく葵に関わってから、色々な感情を呼び起こされていったのだろうと想像がつく。自分がまさにそうだったから。 「父さんとは? 学年違うけど、仲良かったって聞いたんだけど」 その言葉に祐介は、聡い英が何かを感じていることには気がついたが、当然顔には出さない。これっぽっちも。 「ああ、仲は良かったな。セコバイとチェロの首席同士だったことが大きいと思うけどな。麻生は高2で初めての首席になって、次席の経験もなく上がってしまったから、相当戸惑っていた様子で、それを助けたのがお前のお父さんだ」 「ふうん…」 それなら別にありがちな話だなと英は感じていた。自分の父親が、面倒見のいい質であることはよくわかっているから。 「で、その後どうなったんだ?」 「その後って?」 「なんか、ちらっと聞いただけなんだけど、途中で転校したとか…」 それ、ほんとか?…と、英にしては珍しく、探るような目をして聞いてくる。 おそらく聞いていい話ではないのかも知れないという遠慮も若干あるのだろう。 だがあれはもう、本人がすでに自力で乗り越えたことだから、事実を知らせることに躊躇う必要はない。 だから祐介は、事実だけを端的に話した。 麻生隆也の実家のこと、父親の死、祖父の横領…そして、会社の再建に乗り出したのが、セシリア・プライスの会社だったこと。 だがそこで、英が顔をしかめた。 「なんで、ばーさんがそんなとこに絡んでるんだ?」 浅井家と桐生家の祖母を『グランマ』と呼ぶ英が、よりによって1番若いセシリアをつかまえて『ばーさん』などと呼んでいるのが可笑しくて、思わず吹き出しそうになったのを、祐介はかみ殺して言葉を継いだ。 「再建に乗り出したのがプライス家の会社だったのは本当に偶然だったんだ。けれど、麻生とお前のお父さんが仲がいいと知ったセシリアさんが、麻生が将来会社に何らかの立場で残れるようにしてやるという条件で、お前のお父さんをプライス家の養子にと言いだした」 「…マジで?」 英の目が尖る。 「ああ、そして、それを承諾したんだよ」 「父さん…が?」 小さく『嘘だろ…』と呟く表情は、驚きを通り越しているようで。 「そうだ。けれど実際養子には行ってないだろう? それが答だ。麻生は自分のことは自分でケリをつけて、自分の足で立ち直る道を選んだ。お前のお父さんは、助けてやりたいと切望しながらも、それを見守るしかなかった…ということだ」 最後まで諦めずに道を探った守の姿は、哀しいほどに格好良くて、辛くて見ていられないほどなのに、輝いていた。 「…そんなことがあったんだ…」 今度はぼんやりと視線を落とし、英は呟くように言葉を落とす。 その肩をポンと叩き、祐介は少しだけ話題の矛先を変えた。 「ま、あの時は色々あったな。麻生に嫌がらせしたヤツらにキレた葵が上級生につかみかかって大乱闘になったり」 「葵が乱闘?!」 レッスン以外で厳しい顔を見せたことのない葵の意外な一面を聞かされて、英は驚くしかない。 「葵、キレたら恐ろしいぞ。理不尽なことには真っ正面から戦いを挑むヤツだからな。頭ひとつ以上デカイ柔道部員に啖呵切ったこともあるぞ」 「嘘だろ…」 確かに、優しいが事なかれ主義でないことは知っている。両親と同じくらい、葵は『是々非々』ということを小さい頃から教えてくれた。 けれど、大きい相手に真っ向勝負を挑むタイプだとは思わなかった。 機転で乗り切るタイプだと勝手に思っていたから。 そしてさらに祐介は驚くべき情報を語る。 「ああ、そういえば。麻生の家は大企業だったからな、記事になると思ってかぎつけてきた週刊誌なんかを裏で潰して回ったのが、当時の理事長とお前のおじいちゃんで、その手先がお前の母だったよ」 まさかの母親登場で、英ともあろう者が情報処理に追いつかない。 「えっ、母さんも知ってるのか?」 「そうだな、多分、当時の外の事情も含めて僕より詳しかっただろうな。当時の僕は大人の裏事情までは知らなかった。あくまでも校内で、葵の側にいて見聞きした情報が全てだったから。その他の色々を知ったのは、随分後のことだ。お前のお母さんから聞いて初めて知った話もあったくらいだからな」 ということは、母が父のかつての想いを知っている可能性は限りなく高いと言うことだと、英は悟った。 「母さん…、伊達に9歳も姉さん女房やってるわけじゃないんだな…」 英の妙な感心振りに、祐介は今度こそ声を出して笑い、そして思う。 英はおそらく、何もかもを正しく受け取ってくれたのだと。 そして、理解したのだと。 「今、僕がお前に話してやれるのはこれだけだ。納得出来たか?」 優しく聞いてやると、英らしくない幼さで、こくんと頷いた。 「…うん、ありがと。聞けてよかった」 背中を柔らかく叩くと、ホッとしたように微笑んだ。 ☆★☆ 僕が桂から、英がゆうちゃんから、それぞれ話を聞いた次の夕方。 僕と英は、葵ちゃんのお気に入りの沙羅双樹の下にいた。 英が聞いたゆうちゃんの話は、桂経由で僕が聞いた話よりももっと、外側を取り巻いていた大きな渦で、僕は改めて、抗うことの敵わなかった直也のお父さんの無念を思い知る。 そして、もしかしたら、直也もお父さんから聞かされていないかもしれないと思った。 僕の、血が繋がっている人が絡んでいたことなんて。 「ともかく、父さんが自分の身をばーさんに明け渡してでも護りたいと思った相手だったってことは事実だ」 それほどまでに深い想いと決意すら、封じ込められてしまったんだ。 「パパ…辛かっただろうね」 「ああ、そう、思う」 それから僕たちは暫く黙ったままで、かなりの早さで色を変えていく空を眺めていた。 西の空が、柿色から朱華色へと一瞬華やかに染め上がってから、一気に暮色へと変わっていく。 「昇華…したの、かな」 答えを期待したわけじゃなく、僕はぽろっと思いを零した。 「どうだろうな。痛くは…なさそうに見えたけどな」 「…うん」 英の言うとおり、優しげで、そして懐かしげな眼差しに、確かに痛みは感じられなかった。 けれどきっと、僕たちはまだ本当の痛みを知らない。だからまだ、わからないんだと思う。 パパたちの、傷の癒え方は。 「もしかして…」 暫くして、英がポツンと呟いた。 それから少し考えて、英が僕を見る。 「渉と麻生先輩が出会うのは必然だったのかもな…」 「…英…」 「それともうひとつ、俺、由紀おばさまに聞いたことあるんだ。栗山先生の初恋の人は葵のお母さんだったって」 「ほんとに?」 初めて聞いた。 栗山先生と葵ちゃんのお母さんが幼なじみだったのは知ってるけど。 「留学から帰ってプロポーズしようと思ったてら、すでに葵が生まれてた…って話だったんだけど」 そうだったんだ…。 「葵ちゃんと由紀おばさまみたいな関係なんだと思ってた…」 「だろ? 俺も幼なじみだと思ってたんだ。葵と由紀おばさまは親友みたいなもんだしな」 そこに『恋』があったなんて…。 でも、それが自然の成り行きなのかもしれないけど。 「でも、そうだとしたら、栗山先生凄いね。好きな人が他の人の子供産んでて、その子を我が子同然に育てられるなんて…」 「そんだけ好きだったってことだろ。何もかもが愛おしく思えるほどにさ」 英の返事に、僕はちょっとびっくりした。 英の言葉に、『ああ、そういうことか、なるほど』って素直に思えたことと、僕には思い至らなかった『そういう想い』をすでに英が自分の感情の中に持っていることに。 それって多分、かなり思いを深くしないと気づかないことだと思うから…。 「そういえば、葵ちゃんのお母さんの話ってあんまり聞かないね」 「ああ、そうだな」 『大人の事情』で離ればなれにさせられてしまったグランパと葵ちゃんのお母さんは、葵ちゃんのお母さんが生きている間には再会は叶わなかったのだとグランマに聞いたことがある。 けれど、2人はずっと想い合っていたのだと。 グランパが離れている間、葵ちゃんのお母さんの側にいたのは栗山先生だったけれど、葵ちゃんのお母さんは本当に若くして亡くなってしまった。 会えずじまいだったグランパと、想いが叶うことなく愛する人を見送らざるを得なかった栗山先生。 どちらの悲しみも、僕らなんかが想像するよりももっともっと、深くて辛いものだったに違いない。 「パパと、直也のお父さんと、栗山先生が、それぞれに想いを実らせていたら、僕たちみんな、生まれてなかったかもしれないね」 僕らの命は、パパたちが辛い思いを乗り越えて来てくれたから、ここにあるのだとしたら…。 「ショック?」 「あ、ううん。そんな感じはしないかな。ただ…」 「ただ…?」 「僕も、ぼんやり生きてちゃダメだなあ…って」 英がそっと肩を抱いてきた。 「英は?」 どう思ってるんだろう。 「ん? 珍しく渉がまともなこと言ったなあ…って感動してるとこ」 「なんだよ、それ」 素直じゃないなと思いながらも、僕は英にもたれかかる。 いつか英に好きな人ができたとき、それが幸せに成就しますようにと、僕は強く願う。 『何もかもが愛おしく思えるほどに好きな人』と、幸せに…。 ☆★☆ 夏合宿も無事終えて、夏のコンサートの本番も大成功で終わった。 僕はあくまでもゆうちゃんの下振りだから、本番の日は裏方に徹していられて、これはこれで、ステージに上がるのと違う楽しさがあるなって気がついた。 照明や音響、進行もあるし、やることはいっぱい。 プロのステージだったら、もちろん裏方さんもその道のプロが担ってるけど、ここでは全部、管弦楽部員の手でやってる。 それは直人先生が顧問だった頃からずっとで、『演奏しか出来ないヤツを育てる気はない』ってよく言ってたよ…って教えてくれたのはもちろん昇くん。 でも、こうしていろんな仕事を覚えられるのは本当に楽しい。 英は聖陵での初舞台で、しかもオケに乗るのも初めてだったけど、みんなが言うように、もう何年も首席に座ってるかのような存在感で、OBの先生方が『悟がチェロ弾いてるみたいで不思議』なんて笑ってたり。 僕の時も、『奈月がチェロ弾いてるみたいで不思議』って言われてたらしいんだけど、僕は全然知らなくて。 あと、今回は『なんで渉が出てないんだ』って、いろんな人から聞かれて説明が面倒だったりして。 あ、聖陵祭コンサートでは、1曲『本振り』させるからな…ってゆうちゃんに言われて、嬉しいような怖いような。 なんで怖いかって言うと、夏休みの間に楽曲解析しておきなさいって渡されたスコアがなんと、ドヴォルザークの『謝肉祭』。 初めて本振りするのにこれってちょっとキツくない?って思ったら、英も『鬼だな、祐介』って言ってた。 でも、ゆうちゃんが『うちのわたちゃんなら、こんなのチョロいチョロい…って太鼓判押した人がいるから』って言うんだ。 もしかして、それ、グランパ?って聞いたら、なんかこの前こっそり練習見に来てたらしくて、『やっぱりうちのわたちゃんは天才だった』って浮かれてたって。 ほんと、爺バカなんだ、グランパって。どっちのクランパもだけど。 とりあえず、明日から3週間の短い夏休み。 課題もごっちゃりあるし、譜読みもしなきゃだし、ママと奏が帰ってくるから、奏の相手がきっと大変だし、忙しくなりそう。 そうそう、直也が今年はずっと東京にいるって言ってて、桂も1週間ほどしか京都へ帰らないらしい。 2人の居場所は、直也のお母さんが持ってる都内のマンション。 直也は受験を見据えての夏期講習。 普段はどうしても部活優先で勉強時間が減るから、この期間に頑張るって言ってた。 で、前期期末は絶対僕を抜いてみせるって。 桂も、昇くんの個人レッスンをこの期間に集中して受けるらしい。 ちょうど、昇くんも国内にいる時期だし。 ちなみに直也のお母さんと桂のお母さん――由紀おばさまは、息子たちが親しくなったのをきっかけに仲良しになったって聞いた。 熊本とウィーンと言う、とんでもない遠距離だから、会ったことこそ一度しかないらしいんだけど、主にメールで親交を深めてるって話。 葵ちゃんという共通の存在と、同い年っていうこともあって、まるで子供の頃からの親友のような感じらしい。 葵ちゃんの扱いに関しては、『葵様』って呼んで奉ってる直也のお母さんと、『可愛げのないヤツ』呼ばわりの由紀おばさまのギャップありすぎだけど。 ともかく、直也も桂も、自分の目標に向かって本当に頑張ってる。 僕も、負けないようにしなきゃ…と思ってる。 おぼろげだけど、目指してみたいものが少し見えてきたから。 どっちの方向をみればいいのか、それすらわからなかった一年前に比べると、ちょっとだけ進歩かなって思う。 それもこれも、みんなが助けてくれたから。 まだまだダメそうな僕だけど、もう少し、強くなれるように頑張ってみようかな、なんて。 |
END |
『幕間〜君が欲しい』へ