幕間 「君のためだけに」
【2】
オーディションで首席になった英は、すぐにチェロパート内でその力を発揮し始めた。 渉はその性格から『輪』と『協調性』でパートをまとめたが、英は渉と違い、指導力に長けていた。 ひとりひとりの面倒を細かく見て、的確にアドバイスする能力はおよそ15才のものとは思えず、さりとてその目線は決して上からのものでは無く、常に同じ高さにあるものだから、チェロパート全員から絶対の信頼を置かれるようになるまで、さほど時間は必要ではなかった。 部活が始まると、英は、指導することが性に合っていると感じるようになり始めていた。 いずれは父親のようなソリストになるのが目標だが、今はこうしている方がずっといい。 ここへは渉を追って来ただけのはずだったけれど、思っていた以上に居心地の良い仲間たちに恵まれて、ここでの3年間が楽しみになりつつある。 そして、おそらく渉も、同じように感じたのではないだろうかと気づいた。 自分は渉を追って来たが、渉は祐介を追って来た。 けれど多分、管弦楽部に入って仲間に恵まれ、今までになかった音の世界を楽しめるようになったのではないだろうかと。 けれど渉の能力はまだ生かし切れていない。 この先どうなっていくのか。 期待と不安がない交ぜになるが、護り見届けて行かなくてはいけないと感じていた。 ☆ .。.:*・゜ 「本当は音高に行こうと思ってたんだ。だから演奏にはそこそこ自信もあったけど、音高とここじゃ偏差値が違いすぎて、勉強追いつくのが大変だったよ」 消灯前の自由時間。 英と斎樹の部屋に、水野真尋が来ていた。 英と同じ、『正真正銘』の音楽推薦である真尋は、入学して以来、英に張り付いている。 クラスが違うので放課後以降に限られるのだが、それでも時間が空けば引っ付いてくるので自然と渉とも親しくなりつつあった。 「そんなに難しいか? ここは」 英にとってはそうでもなかったような気がするのだが、この際言わないでおく。 「そりゃ、トップ入学の英には何でもないかも知れないけどさあ」 口をとがらせる真尋に、斎樹が横から口を挟む。 「英もトップだったけど、渉先輩もトップだったぞ」 「えっ、渉先輩、勉強もできるんだ」 「499点だったよ、確か」 渉の点数を聞いて、『ちっ、やっぱり負けたか』と、英は内心で舌打ちする。 チビの頃からずっと渉を追いかけて、いつも隣にひっついて勉強してきたおかげで英も成績が良い。 だが、一度も渉の点数を抜けたことがない。 去年、日本に来ていた間に受けた全国模試も8位だったから勝っただろうと思ったら、渉は6位だったと聞いて、おもしろくなかった。 同じ学年ではないのだから、点数を比べるのは不毛だとわかっていても、悔しい。 引っ込み思案で人見知りの兄の面倒を見てきたのは自分なのに…と、これまた不毛な因縁だとわかっていても悔しいものは悔しい。 「ウソ…。僕なんか、『正真正銘』の中で最下位だったのに…」 「ま、入れたんだからいいじゃないか、そんなこと」 例え最下位でも学年では30番なのだから、全体としては良い方だ。 「まあねえ…。でも、入学してみて、渉先輩に会って、びっくりした」 「どうして?」 「だって、英みたいに堂々とした人だと思ってたんだよ。そしたら優しくて大人しくて恥ずかしがり屋で可愛いんだもん。ギャップにハマった新入り多いよ」 ついでに『人見知りで泣き虫』だがな…とは言わないでおいてやるが。 「まあな、アレは楽器持たせると生きてるステージが変わるから」 「えっ、そうなんだ」 「あ〜それわかる。英も真尋も知らないだろうけど、去年のオーディションの渉先輩、神演奏だったし」 腕組みして唸る斎樹に、英が小さく笑う。 「なんだ、それ」 「いや、マジで神降臨の演奏だったんだぞ?」 「チェロで…だろ?」 「もちろん」 「渉はヴァイオリンとフルートはもっと上手いぞ。チェロで神だったら、そっちはどうなる」 隣で真尋が呆けている。 「やっぱり凄いんだ…渉先輩って…」 その隣で斎樹がまたしても唸る。 「あ〜でもそれ、麻生先輩も言ってた。1度吹いてみてもらったことがあるんだけど、マジ、チェロに行ってもらえてよかったって。でなかったら、自分は次席だったと思うって」 「えっ、あの麻生先輩が?」 直也は真尋のお気に入りなのだ。 ハンサムで優しくて。 でもワイルド系できさくな桂もお気に入りで、英はもっとお気に入りになりつつあるのだが。 「でもさ、英のチェロだって神の領域ってみんな言ってたぞ」 斎樹の言葉に、うんうん、と激しく真尋が同意している。 「何言ってんだか。俺のはまだ、発展途上だ」 自覚はある。自分の演奏はまだ、師である父親の踏襲に過ぎないと。 『いつか父を越えたい』 それが英の目標だ。 けれど、渉は違う。 ヴァイオリンを昇、チェロを父親、フルートは葵、ピアノは祖母…と、それぞれに師事しながら、誰の影響も受けていない。 技術は確かに受け継いでいるけれど、出す音も表現方法もまるで違う。 渉にしか出来ない、何かが確かにそこに存在している。 そんな、まるで違う『何か』を持っている渉が指揮台に立つのだと聞いたのは、春休み中のこと。 あの引っ込み思案にそんなことが出来るのかと最初は思ったが、こと音楽に関しては、渉が豹変するのは知っている。 だから、まだその現場を一度も見ていないが、祐介だけでなく、悟からも『楽しみにしておいで』と言われたし、斎樹は2月から3月の間に渉の指揮を中等部ですでに経験していて、みんな心酔してると聞いて、かなりワクワクしているところだ。 そういえば、『世界一自信家の傲慢オンナ』と父が評する、血が繋がった祖母――オペラ界の女帝セシリア・プライスをして、『渉はミューズの落とし子よ』と言わしめ、『あの子を誰かが縛るなんて許されないわ。だから英、あなたがうちへ養子にいらっしゃい』なんて訳のわからないことを言っていたのを思い出す。 『それはご容赦下さい』と丁寧に英語でお断りして、最後に日本語で『おばあちゃん』と言ったら、額に青筋たてて、『今なんて言ったの? 英』と迫られた。 隣で父親が大爆笑していたのがおもしろかったのは、確か13歳頃の思い出だ。 それから程なくして消灯点呼の放送があり、真尋が自分の部屋へ帰っていった。 「なあ、英」 先ほどまで快活に笑っていたのとは打って変わった声で、斎樹が英に呼びかける。 「なんだ?」 「俺、ちょっとヤバイかも」 「なにが?」 「真尋」 「真尋がどうかしたのか?」 つい今し方まで、楽しそうに話をしていてヤバイという雰囲気はどこにもなかったと思った。…のだが。 「あ」 何かを思いついたように声を出した英を、斎樹がチラッと伺う。 「俺、中学3年間ここにいて、こんな気持ちになったこと、一度もなかったんだけどなあ…」 はあ…と悩ましくため息をつく斎樹は、すでに恋するオトコの顔だ。 「自覚できたんなら、頑張ればいいじゃないか」 「え? そんなもん?」 「そう、そんなもん」 「そっか。じゃ、頑張るか」 入学してまだほんの少し。 けれど、斎樹のこんな柔らかさが英には心地よくて、同室にしてくれたことを祐介に感謝している。 葵に聞いたのだ。 『『正真正銘』には、細かく配慮して同室者が決められるんだって』と。 特に推薦で入って来る生徒には、その部活の中でも顧問の信頼の厚いものが選ばれるらしい。 自分も卒業して随分経ってから知ったんだけど…と、笑っていたが。 「ところで英はさあ」 「うん?」 「気になる子、いないのか?」 自分が頑張る気になった所為か、英のことも応援する気になったのか、斎樹が真顔で尋ねてくる。 「ここで…か?」 笑いながら言う英に、斎樹は『そりゃ言えてるな』と大笑いする。 けれど、その時、ふと英の頭を小柄な影が過ぎった。 それが誰なのか、深く追求するのはやめて、英は斎樹に向き直る。 「ま、俺は渉で手一杯だからな、斎樹のことは応援するからがんばれよ」 その言葉に、斎樹は大笑いしたついでに、もう一笑いして、英の肩を軽く叩いた。 「ほんと、ウルトラブラコンだなあ、英は」 ブラコンと言われることには慣れている。自覚もある。 けれど軌道修正しようとも思わない。 物心ついた時から渉への想いは自分に根ざしてしまっているから。 ただ、それがあらぬ方向へ行ってしまわないように修正することだけは心がけてきた。 自分たちは、悟と葵のようにはなれないのだと。 「まあ、渉先輩、ちょっと身体弱いもんなあ。確かに心配だよな」 うんうんとひとりで納得している斎樹に、どうして後輩までが渉の身体のことを知っているのかと疑問に思う。 「なんで知ってる? もしかして、ここへ来てから何かあったのか?」 「え? まさか知らないってことないだろ? ほら、去年の5月に、肺炎になって2週間入院しちゃったじゃん」 ――聞いてないぞ! 「え…ほんとに知らなかったとか?」 英の顔色に、斎樹が目を丸くした。 「うわ〜、『ウルトラスーパーブラコン』でも知らないことがあるんだ。ま、離れてたんだから仕方ないよな」 慰めてくれてるんだかなんなんだかわからないが、とりあえず知らなかったことには違いない。 これは後で追求せねば…と、拳を握りしめたところで、消灯になった。 後日、どうして言わなかったと渉を責めてみれば、『ママが英に言わなかっただけじゃん!』と言い返されて、むくれられてしまった。 悔しいので祐介にも八つ当たりしてみたのだが、『そりゃ、言えばこうなることがわかってたからだろ?』と、笑いながら流されてしまって、釈然としない英であった。 ☆★☆ 少しずつではあるけれど、日没が徐々に遅くなってきていることを感じられるようになった宵。 夕食をさっさと終えて、直也と桂は裏山へ上がっていた。 去年、『ゆうちゃんでなきゃヤダ』と叫んでから、逃げるように裏山へ駆け込んだ渉を追ったときに、3人で腰掛けていた大きな岩に、今夜は2人で腰掛ける。 暫くの間、無言でいたけれど、お互いの言いたいことはすでによくわかっていた。 それほどまでに、自分たちは『近い』。 もし、同性でなければ恋愛に発展していたかもしれないほど、気持ちが寄り添っていると思えるくらい。 もちろん『ここ』では同性であることなどなんの障害にもならないけれど、直也と桂の間に恋愛感情はあり得ない。 森羅万象あらゆるものに誓ってもいいくらいに。 ただ、あまりに近い故に2人は同じ人に恋をし、その事実を認めてなお、諦めることなく愛に育ってしまったのかも知れない。 そう思うと、2人がこれから出そうとしている結果は、必然とも言えると感じている。 自分たちは、どちらが欠けてもダメなのだ。 渉を愛して行くためには。 「なあ、直也。俺たちそろそろ腹も括り時じゃないか」 「まったく同感だな」 独占したい気持ちはもちろんある。これからも消えることはないだろう。 けれど、渉という希有な才能を持つ人間を自由に羽ばたかせるために、自分たちは精一杯愛していこうと決めた。 この先ずっと2人で、渉の心と身体を護っていくのだ。 それは想像しただけでも幸せな未来ではないだろうかと、知らず笑いが溢れる。 「要は発想の転換だな」 「そうそう。渉が俺たち2人ともを選んだんじゃなくて、俺たち2人ともが、渉から離れられないってことだよな」 うなずき合い、お互いの気持ちをしっかりと確かめる。 「じゃあ、行くか?」 「おう、行くしかないって」 2人、握った拳を軽く当てて、ニッと笑う。 『渉くんを下さい』なんて言ったら、ヤツはどんな顔をするだろうか。 もしかしたら、殴られるかもしれない。 でも、それくらいなんてことはないだろう。 渉をこの腕に抱くためには。 寮へ戻って英に呼び出しをかけた。 本来なら英の部屋を訪ねて話をすべきだろうけれど、同室の斎樹がいるから、悪いけど…と前置きして自分たちの部屋へ来てもらった。 「なんですか、話って」 聡い英は、そう言いつつも予想はついているようだった。 けれど、意識してやっているのかも知れないと思えるほどに、英は落ち着き払った様子を見せている。 直也と桂は、英にこれまでの経緯を説明した。 自分たちが2人とも渉に恋し、告白したこと。 いったんは玉砕したものの、渉の本心を和真から聞いて、再び告白しなおしたこと。 英は話の途中で眉をひそめはじめた。 「…渉の本心…ってなんですか?」 直也と桂はお互いをほんの少し見て、小さくうなずき合った。 「渉は、俺も、直也も、好きだって」 「…え?」 「僕たちが最初に玉砕したのは、『2人ともに『Yes』と言えない以上、2人共に『No』というしかなかったっていう渉の優しさだったんだ」 英の顔色が変わった。 まさかそんな『三角関係』だとは夢にも思わなかった。 ただ、渉を見ていても、どちらに想いを抱いているのか全く掴めなかったのは事実だ。 こういうことなら合点がいく。 しかし、俄には信じがたかった。 渉は一途だ。あらゆることに。 だからこそ、妥協ができずにいつも自分を奥深くへ追い詰める。 ――ああ、だから…か。 2人への想いに、どちらにも決着がつけられず、だから2人とも諦めたけれど、その結末も受け入れきれないままに、苦しんでいるのだ。 渉の想いがそう言う経過を辿ったのは、英には手に取るように解る。 物心ついた時から、その優しくて奥深い心に触れてきたから。 「その段階で渉は諦めてしまった」 直也が唇を噛んだ。そんな直也に頷いて、桂が続ける。 「でも俺たちは渉に諦めて欲しくなかった。俺たちの気持ちはまったく変わらないから、3人にとって一番良い方法を考えようとして、少し時間が欲しいって頼んだんだけど…」 だから、直也と桂の説明も、理解ができる。 けれど渉は、『自分こそが間違い』だと思っているに違いない。 そうなれば、時間も慰めも再びの告白も何も関係ない。 この2人が、2人ともが渉を受け入れない限り、解決はない。 ――なんてことだ…。そんなこと、絶対に有り得ない。 渉はずっと、この想いを心の中に錘に抱えたままで生きていかなくてはいけないのか…と、絶望的な気分になった。 渉が『忘れる』までには、とんでもない時間がかかるはずだ。 英は大声で喚きたい気分だった。 2人を想ってしまったのは渉。 目の前の2人の咎ではないから責めるわけにもいかない。 どうして好きになんかなってくれたんだ…と、お門違いの文句を言いたくなるが、気持ちもわかる。 渉は魅力的だ。 本人の自覚はまったくないけれど、姿も性根も優しくて、誰もが惹きつけられる。 血を分けた自分ですらそうなのに、近しい友情が恋情に変わるなんて、当たり前に起こることだ。 言葉を無くして拳を握りしめる英の肩を、桂が優しく叩いた。 「でも、答は単純なことだったんだ」 英がハッと顔を上げる。 その目を見て、直也が微笑んだ。 「そう、僕たちは、このままでよかったんだ」 「…先輩…」 嘘だろう? まさか…と言う言葉ばかりが英の頭を駆け巡る。 「僕たちは、2人で渉を愛して護っていきたい」 「それを、英にわかって欲しいと思ったんだ。俺たちは渉にまた告白し直して、今度こそ受け入れてもらうつもりだから」 「渉を僕たちに、預けてくれないか?」 「ずっと、ずっと大事に護っていくから」 あまりにも信じられない言葉だった。 2人は、この事態を受け入れるというのか。 どう大目にみたところで、あまりにも無理のある関係ではないのか。 「栗山先輩も麻生先輩も、それでいいわけ? 納得できるっていうんですかっ?」 だが問い詰められても、2人は穏やかだった。 「うん、自分の気持ちを見直して、間違いないことを確かめるのに、情けないことにこれだけの時間をかけてしまったんだ」 「結局遠回りなだけだったけどさ」 その言葉に、2人がただ、なんとなくこの結論に至ったのではないと察せられた。 渉が悩み、苦しんだように、2人もまた、色々な事を考えては打ち消し、それを繰り返してきたのに違いないと。 それでもなお、英は言わずにはいられなかった。 「言っておきますけど、渉は器用じゃないですよ。むしろ不器用だ。先輩たちの思うようにいかなくなる時もきっとある。苛々してなんとかしようとしても、渉は自分の殻に籠もるばかりだ。それに、渉はすぐに思い詰めるし、一度悩みはじめたらかなり深く潜り込んでしまうし、それを2人の都合で無理強いなんかしたら、俺は絶対…」 許さない…と言おうとした言葉を、2人が同時に遮った。 「「その時は…」」 そして頷き合う。 「どちらかが渉の逃げ道になる」 「いつでも渉が、その羽を伸ばせるように」 「…先輩…」 「まあ、実際のところ、渉は大き過ぎて、ひとりでは抱え切れない…って気がするし」 直也が小さく笑うと、桂もまた、笑う。 「だよな。チビのくせに大物すぎるよな。渉って」 英は正直なところ、2人がここまで考えているとは思っていなかった。 いつの間にか、渉はすっかりと包まれている。 おそらく、かなり深く真摯な愛情で。 それが、まだ本人は告げられていないだけで。 「栗山先輩、麻生先輩」 英の固い声色に、直也と桂は知らず背筋を伸ばす。 「泣かせたら、承知しませんから」 言って、唇を噛む英に、直也と桂は静かに頷いた。 「英、ありがとう」 「明日、ちゃんと渉と話をするから」 穏やかな2人の言葉にも、だがやはり、英にはこんな無理のある関係が長続きするとは思えなかった。 早晩破綻してしまうのではないか。 その時の渉の気持ちを考えると、これっぽっちも良かったなどとは思えない。 だが、今のところは見守るしかないと諦めた。 何しろ渉が弱りはじめているのだ。 このままで良いはずが無いのだから。 だから、『とりあえず』なのだと、英は何度も自分に言い聞かせる。 「渉、そうとう参っています」 「…やっぱり…」 「気になってたんだ。遠目にも顔色が悪いって」 来てもらって悪かった…と詫びる2人に、英は緩く首を振り、部屋を出ようとした…のだが。 「あ、ところで先輩方」 ドアに手をかけたところで英が肩越しに振り返る。 「渉が一発でご機嫌になる大好物ってご存じですか?」 当然知ってますよね…なんてニュアンスをチラッと含めて微笑んで見せる。 「え…っと」 「好き嫌いは…」 「ないよ、全然」 「だよな」 見た目の繊細さからして、いかにも偏食そうな渉だが、その実好き嫌いは全くない。 両親が厳しかったと言っていた。 たが、そういえば、『一発でご機嫌になる大好物』は知らない。 情けないことに。 「ま、一からせいぜい頑張って下さい」 してやったりの笑顔を見せて、おやすみなさい…と、最後に告げて、英は出て行った。 それからしばらくの間、『渉の大好物問題』は直也と桂の頭を悩ませるのだった。 本人に直接聞くのは、英の手前、悔しかったから。 ☆★☆ 「英、おつかれさん」 「安藤先輩…」 英が直也と桂の部屋を出てみれば、向かいのドアに、和真がもたれて立っていた。 「ちょっと寄ってかない? 渉は浅井先生のところに行ってるから」 笑顔に誘われてみる。 「よくやったね。辛かったろ? なにせ天下無敵のブラコンだから」 笑いながら言って、缶コーヒーを手渡してくれた。 ここへ来てからの、英のお気に入りの銘柄だ。 すみません…と、小さく言って、促されるまま、渉のベッドに腰掛ける。 和真の笑顔に、きっと、この人は見えないところでたくさん動いてくれたのだろうなと思い至る。 渉の負担は、この人のおかげでかなりマシだったはずだ。 今はもう、どうにもならないところまで来てしまっているが、それでも、ここで踏みとどまっていられるのも、この人がいてくれたから…に違いない。 だから、自分も素直に今の気持ちを吐露できる。 「でも、渉の手を離したわけじゃないですよ。俺は、俺の納得のいくまで、先輩たちを監視していくつもりだし、何かあったらすぐに取り返すつもりだから」 そうだね、と、和真は頷いてくれた。 「それにしても、どうして…」 英が呟いた。 それも和真は静かに聞いていて、先を促してくれる。 「渉はチビの頃でも、どんなに好きなものでも『どっちも欲しい』なんて言わなかった。必ず考えて、一生懸命考えて、どっちかを選んでた。それが今回に限ってどっちも欲しいなんて、よほどどっちも…」 「美味しそうに見えたんだ」 2人して吹き出した。 それだけで一気に気持ちが軽くなった。 悔しいし、不安でいっぱいだけれど、今は認めてやるしかない。 そう思えるようになれそうな気がする。 「ともかく俺は、渉が幸せで、いつも笑っていられるようであれば、それでいいんです」 精一杯強がっているようにも見える英が可愛くて、和真はついつい…。 「ふふっ、大人だね、すぐるん」 「……先輩」 こめかみに巨大なタコマークが見えるような気がして、和真は口を引き結んで笑いをこらえる。 「ん?」 「その呼び名はどこで……」 「ナイショ」 「せ〜ん〜ぱ〜い〜」 「あ、渉じゃないんで、そこんとこヨロシク」 こうして、直也と桂が『渉の大好物探し』に頭を悩ませている間、英は『すぐるん事件の犯人探し』に頭を悩ませることになったのであった。 ちなみに犯人は、孫を溺愛している美人ピアニストだったりする。 ☆★☆ 翌朝、和真と英と斎樹に囲まれて、朝食を摂っているのであろう渉の姿を離れたところから見守る直也と桂は、不安そうな表情を浮かべていた。 渉の顔色は更に悪くなっている。 今日、部活が終わったら、和真が部屋を空けてくれることになっている。 必ず今日、決着をつけると心に決めているが、それまでの時間すらもどかしい。 まだ体調が持つうちになんとかしたい…と、願っていたのだが。 朝礼が終わった直後、隣のクラスが騒がしくなったことに、クラスの誰もが気がついた。 何かあったのかと席を立って見に行くクラスメイトたちの姿を見て、直也と桂は、顔を見合わせた。 嫌な予感がした。 「誰か倒れたらしい」 「古田先生が、抱いてったって」 「えっ、誰って?」 騒然とする中、直也と桂は絶対に今は聞きたくない名前を聞いてしまった。 「渉だって!」 「え〜!」 「大丈夫なのか?」 「そう言えば、ここんとこ顔色悪かったよな」 渉があまり丈夫でないことは、同級生なら大概知っている。 誰もか渉を案じて口々に話し合う声が、徐々に遠くなる。 ――間に合わなかった…。 見なくても、お互いが今どんな顔をしているかなんて、イヤと言うほどわかる。 多分、他人が見たら、この世の終わりのような顔をしているだろう。 渉と離れては、自分たちは自分らしくいられない。 改めて思い知る、何もできない無力さに、拳を握るしか無かった。 けれど、それも今日までだ…と、心に固く誓って。 何の授業だったのかわからなかったほどの1時間目が終わったところで、和真が直也と桂のもとにやってきた。 「昼休み、保健室行っといで。斎藤先生には話通しておくから。でも、渉が起きてるとは限らないからね」 言うだけ言って、急ぐから…と、和真は駆けて行ってしまった。 顔を見るだけでも…との和真の気遣いに、2人は顔を見合わせて頷きあった。 時計の1秒が、いつもの数十倍にも感じられた午前がやっと終わり、保健棟へ駆けつけた2人を、なにも言わず、ただ優しく頷いただけで斎藤は通してくれた。 外の音が遮断された静養室。 どれほどの我慢を強いてしまったのだろう。 渉はあまり安らかな顔では眠っていない。 時折辛そうに眉を寄せる様子が可哀相で、目が熱くなる。 「わたる…」 枕元で小さく呼んでみる。 点滴の針が刺さる腕は、更に細くなっているように見える。 顔色はほんの少し回復しているようだが、それはおそらく点滴のおかげだろう。 「わたる…」 もう一度だけ、更に静かに呼んでみる。 起こしてしまいたいわけではないから。 しかし、渉の瞼が小さく震えた。 ぼんやりと開けられた目の奥には、あまり光はない。 けれど。 「直也…桂…」 渉が小さく呼んでくれた。 どれだけこの声を聞いていないだろうか。 この可愛らしい声で、自分たちの名を呼んでくれるのを。 嬉しくて、自然に頬が緩む。 けれど、渉の瞳は夢うつつに煙っているかのようで。 「大好き…ずっと…」 幸せそうにそう告げて、渉はまた、瞳を閉じた。 今度は少し、安らいだ顔をして。 嬉しくて、思わず2人して、両側から顔を寄せる。 そして、初めて唇で触れた頬は、ひんやりとして柔らかく、ふわりと甘かった。 |
END |
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