幕間 「大切な君だから」
【2】
新年度が始まった。 担任がまさかの篤人くんでびっくりしたけど、まあ、なんとかなるだろう。 それにしても、春休みもうちにいたのに、そんなこと一言も言わないし。 も〜。 僕たち持ち上がり組はついに5年目。 なんだかあっという間だ。 特に去年は、念願だったオーボエパートの首席になれて、アーネスト・ハースさんのレッスンが受けられて、しかもドイツへ来てみる気はないかって手紙までもらって、それだけでもびっくりするくらい充実した1年だったけど、なにより僕にとって一番の出来事は、渉に出会えたこと…だ。 ただでさえ愛らしい顔と性格なのに、音を出せばあっという間に人の心まで鷲掴みにしてしまう彼は、知れば知るほど可愛くて、僕にとってなくてはならない存在になっていった。 考えてみれば、渉に出会わなければアーネスト・ハースさんとの出会いもなかったし。 今年の新入生は、中高問わず、渉に憧れてきたってヤツが多い。 もともとここを目指す子は、早くから意志を固めて準備を始めてるのが普通だけど、特に今回は、去年の渉のソロを聴いて、何が何でも入りたいって子が激増したらしい。 入試まで2ヶ月足らずって時期だったのに。 特に、英の他にもう一人チェロの音楽推薦がいるんだけど、その子は私立の有名音高に行くか、聖陵に行くか…で悩んでたんだけど、渉の演奏聞いて、こっちに決めた…とか。 なので、ただでさえ高い倍率がさらに跳ね上がり、渉のお父さんたちがいた頃に近い水準まで上がってしまった…って、うちの翼っちが教えてくれた。 そりゃもう、去年の渉のコンチェルトってば、かっこいいったらなかったもん。 あの渉を見て、『引っ込み思案で大人しくて人見知りで泣き虫』だとは絶対思わない。 ステージの渉は自信に満ちた美少年…にしか見えないもんね。 新入生たち、ギャップに驚くだろうなあ。 でもって、絶対さらに好きになってしまうと思う。 だって、本当に可愛いんだ、素の渉ってば。 卒業してからも、もちろんずっと親友でいたいけど、いつも一緒にいられる時間はあと2年。 たくさんの思い出もつくりたいし、いろんな経験をしたいし…何よりも、渉に幸せになって欲しい。 まあ、ここを出てからだって出会いも幸せもあるとは思うんだけど、せっかく渉があそこまで想ってるんなら、なんとか成就してほしいなあと思う。 この際『二人一束』でいいから。 僕も、最初に渉の気持ちを聞いたときには、まさかの展開に驚くばかりだったけど、あいつら――もちろんNKコンビだ――ならなんとかするかもしれない…なんてちょっと楽観しはじめてたりして。 ま、愛の形もひとつじゃないってことかな。 そもそも『ここ』で恋愛しちゃうってところからして、フツーの愛の形じゃないだろうし。 なんて思ってたんだけど。 渉の様子は変だ。 これだと学年末に泥沼化しちゃった時期と変わらない。 直也も桂も、渉の負担を減らすだとか、自分たちの気持ちが変わらないことを伝えるんだとか、息巻いてたけど、ほんとに伝わったんだろうか。 あいつらの愛が後先考えない直情型だってのも心配のタネなのに、受け取る渉がこれまた『自分が悪い』ってところから抜け出せてないもんだから、すっごくネガティブになってるのが気がかりだ。 渉は、自分から距離を置こうとしているんじゃないかな。 忘れようとしてる風には見えない。 忘れられないから見ないようにしてる…って感じかな。 まあ、たとえ距離が開いちゃっても、英がいてくれるから、渉を護ると言う意味では不安はない。 ヨコシマな気持ちがない分、直也や桂よりずっと安心だし、頼りになるし。 まさかあんなに強度のブラコンだとは思わなかったけど。 沢渡が『見てて飽きないですよね』って笑ってた。 あんな長身男前が、『お兄ちゃん命』ってのがツボにはまったらしい。 その気持ち、よくわかる…。ぷぷっ。 僕と渉がいつも一緒にいて、授業中以外はその渉に英が張り付いていて、その英に沢渡がくっついてるから、僕らは最近4人でいることが多い。 周囲は、英と沢渡が、NKコンビに取って代わった…って思ってるらしいけど、僕からすれば、渉を取り巻くオトコに英が増えて、『わたちゃん、大変だね』…って感じだ。 ただ、渉の様子は気になっている。 何か良くない方向へ転がってるんじゃないだろうか。 少しずつ、静かにだけれど、渉は調子を落としてきている。 このまま黄金週間強化合宿に突入してしまったら、また去年のようになってしまうかもしれない。 直也と桂は把握してるんだろうか、渉のこと。 ったく、デカイ図体して世話が焼けるったら。 ☆★☆ 「自分なりにいろいろと情報も集めて考えてみたんですが…」 週2回になった指揮法のレッスンに渉が行っている間に、英が和真を訪ねていた。 「去年の夏には仲が良かったって聞いてます」 「うん」 「先輩たちは渉にべったりだったって聞きました」 「うん」 「でも、俺がここへ入ってから見る状況は、まったくそうとは違って、渉は2人から目を背けようとしています」 「うん」 「渉が少しずつ調子を落としてるのは、多分安藤先輩も気づいてられると思うんですが」 「うん、確かに。気になってる」 和真の言葉に、英が頷く。 「はっきり言います」 「うん」 「俺は、栗山先輩と麻生先輩が原因じゃないかと思っています。渉との間に何かあったんじゃないかって」 英の心配ももっともだと、和真は思う。 事情をよく知る和真でさえ、今の状態はおかしいと思うのだから、何も知らない英からしたら、これ以上奇妙な感じはないだろう。 それほどまでに、渉は2人を避けている。 和真はほんの少し考えてから、ゆっくり話し出した。 「うーん。英相手にウソついてもしかたないから、確かに彼らの間に問題がある…とは答えるけどさ、でもね、これは僕の口から言うべきことじゃないと思うんだ。かといって、渉が話せることではないし…」 言葉を濁す和真に、英が唇を噛む。 「ね、英」 「はい」 「僕を信じて、もう少しだけ時間くれない?」 英がしばし、沈黙した。 他の誰かに同じことを言われたとしたら、多分『なに悠長なこと言ってんだよ!』なんて、噛みつくところなのだが、和真に言われると、それが最良の方法に聞こえてしまう。 何でもない口調の裏にある、静かな説得力。 おそらく、これが彼の『切れ者』と言われる所以なのだろう。 「…わかりました。安藤先輩を信じて、少しだけ、待ちます」 それでも待てるのは少し…だ。 その間にも渉は静かに深く落ち込んで行くに違いないから。 「それと、ひとつ約束してほしい」 「何ですか?」 「絶対に渉に『話せ』って言っちゃダメだよ。それだけは絶対約束して」 「安藤先輩…」 「いいね」 「…はい」 強く言い切る和真に、英は仕方なく従った。だが…。 「今、渉に無理強いしたら、渉はきっと、壊れてしまう」 和真の言葉に、英は息をのんだ。 そこまで渉は追い詰められているのか。 「まあ、こう言うと君はますます不安になると思うんだけど、でもね…」 英が募らせているであろう不安も最高潮だろうと見越して、和真がまた静かに言った。 「誰も悪くなくて、みんな幸せになれるはずのことなんだ。 ただ今はまだ、時期が来ていない…ってことなんだと思う。 少なくとも直也と桂は、最良の解決策を必死で模索しているはずだから」 英が深くため息をついた。 「安藤先輩」 「なに?」 「ひとつだけ、教えて下さい」 和真を捉える真っ直ぐな瞳。 和真もまた臆することなく真っ直ぐに受け止める。 「うん?」 「それは…恋愛感情…ですか?」 尋ねてはいるが、英は確信しているのだろう。 和真は、それまでの硬い表情を少し解いた。 そして、小さく息を吐く。 「…みんな、それぞれに情が深くてね…」 うん、でも、違う、でもない返事だったが、英は正しく受け止めた。 そして、三角関係になってしまっているのだと理解した。 渉が幸せならば問題は無い。 ただし、相手は見極めさせてもらうし、この先も監視は続けるが。 だが、一方的に渉が追い込まれるだけの関係なら、その時には覚悟してもらわねばならないだろう。 ――ただじゃおかないからな…。 ☆★☆ 英と話した次の日。 僕は渉と話をすることにした。 どうして、渉が春休み前の状態のままなのか。 改善の兆しが見えない上に、英にも約束したから、少しでも解決の糸口があればと思ったんだ。 渉の話はあまりにも意外なものだった。 直也も桂もちゃんと告白し直したようなのに、渉はそれを、『怒ってないから心配するな』って意味に取ってしまってたんだ。 『2人とも優しいから、僕が摘み取ってしまおうと思っていた想いを、枯れるまでは放っておいてくれようとしてるんだと思う』って言われたときには、もう、愕然。 もしかして、本当にヤツらはそんなつもりで渉にものを言ったんだろうかと一瞬疑ったんだけど、さすがにそれはないだろうと思い直した。 だって2人とも言ったんだ。『相思相愛で嬉しい』って。 渉がこの件に関してどうしようもなくネガティブなのは、未だに『2人を好きになってしまった罪の思い』を背負っているからだろう。 だったらまずそれを外してやらないと多分前には進めない。 でも、直也も桂も、そこまでは気が回らなかったんだろう。 だから、上手く伝わらなかったんじゃないだろうか。 ともかく、こうなったらもう、毒を食らわば皿まで…とか、乗りかかった船…とか、旅は道連れ…じゃなくて、とりあえず、この和真様が最後まで面倒見てやるしかないっ……んだろうなあ。 ☆★☆ 「こんな良い場所があったんだな」 「うん、葵ちゃんに教えてもらったんだ。この前行ってみたら昔のままだったから、行ってごらんって」 渉と英は夕食後、裏山に散歩に来ていた。 いつもは和真と来ている場所だが、和真に、『たまには英とのんびりしておいで』と送り出されたのだ。 そして、道から少し外れたところにある、大木の割には死角に入っていて目立たない『沙羅双樹』の下にある、そこそこ大きな岩の上に腰掛けている。 日が陰るとまだ肌寒いけれど、上着を着ていればちょうどいいくらいの穏やかな宵。 「え? 葵、来てたのか?」 「多分、12月の定演の時だと思うよ。騒ぎになるから顔出すなって、ゆうちゃんに言われたってむくれてた」 「ああ、それありそうだな」 騒ぎになるところを想像したのか、英が小さく笑う。 「葵ちゃんも、ここで一息ついて、考え事でもしてたのかなあ」 自分の父や叔父たちが、どんな青春時代をここで送っていたのか、楽しい思い出話はたくさん聞いたけど、きっとそればかりではなかっただろう。 まして、葵はここに来てから父親の存在を知ることになったのだ。 「葵は悟と一緒に来てたんじゃないか?」 「え?」 「あの2人、どこへ行くのも一緒だからな」 「だよね。英のブラコンは、悟くんと葵ちゃん譲りじゃない?」 相変わらず恐ろしいほどモテる2人なのに、恋人を作る様子もなく、いつも行動を共にしていることについて音楽界では、『あの兄弟のブラコンは重症だから』という認識で一致している。 そしてそれは『その存在を15歳まで知られることなく育った弟に対する深い愛情』なのだと誰もが言う。 そんな悟と葵は、指揮者とソリストという立場の仕事なら問題はないが、葵がソロ活動中は悟は作曲の仕事に専念して葵についていて、悟が指揮者としてオケを率いている間は、葵が作曲の仕事をしながら悟のツアーについて行っているという状態だ。 ただ、どうしても外せない演奏会がかち合うと、日程を詰めて最短にしてしまう。 今年の春も、フランスとアメリカにそれぞれ2週間の予定で入った仕事を、詰めに詰めまくって、1週間にしてしまったのだ。 事務所のマネージャーたちが、『悟先生も葵先生も無茶言うんですよ〜』と、英にまで愚痴っていたくらいだ。 それ以外では我が儘など言わない2人だけれど、こと2人が離れてしまうことだけには譲らないのだと、半ば呆れながら、でも『あの2人だから許しちゃう』みたいなところがあって、なんだかんだとみんな仲良くやっている。 「あの2人がべったりなのは、ブラコンだからじゃないぞ」 「え? どういうこと?」 「悟と葵は、恋人同士だ」 渉が目を瞠った。 「なんで? それ、ほんと? どうして英がそんなこと知ってるの」 「だって俺、去年の夏に悟に聞いたんだ。『恋人いないのか』って」 英はいつもこうだ。 遠回しにはしない。必ず直球勝負。 渉にはとうてい出来ない芸当だ。 「そしたら、『いるよ。17の歳からずっと愛し続けている大事な子がね』ってさ。 その時、あ、これはやっぱり葵のことだなって思ったんだ」 悟はきっと、『自分』だから教えてくれたのだろうと英は思っている。 「でも、悟くんと葵ちゃんは、兄弟だよ」 片親しか繋がっていないのはもちろん知っているが、それでも兄弟には違いない。 「だってさ、あの2人、兄弟として育ってないじゃんか」 「あ…そうか」 「だろ? 葵がここへ入学した後で兄弟ってわかったんだし。だからもしその前に好きになっちゃってたら、もうどうしようもないだろ」 「……確かに、そうかも」 悟と葵は、渉と英の前でも完璧に兄弟を演じている。 だから渉は全く気がついていなかった。 だが、英にはわかってしまった。悟の気持ちが理解出来るから。 自分も、もし渉と兄弟でなければ…と、思ったことがある。 けれど、自分たちは生まれたときから兄弟。 しかも、悟と葵とは違う、『父母共に同じ』と言う事実が横たわる。 「で、それ、悟くんに言ったの? 葵ちゃんのこと」 驚きはしたものの大した違和感がなく、むしろこれからも2人はずっと一緒なんだと思うと嬉しさが先に立つのはきっと、2人がいつも寄り添う姿を当然の光景として見てきたからかも知れない。 けれど、2人は――それも当然と言えば当然なのだが――その事実を隠し通してきたのだから、それを自分たちが指摘するのは違うだろうと渉は感じている。 そして英の答えはもちろん『No』だった。 「いや、言ってない。ただ、『幸せそうだな。2人とも』って言った」 普段の英らしくない、遠回しな物言いだが、変化球のように見えて実はやっぱり直球なのかも知れない。 「悟くん、なんて?」 「最高にね…ってさ。俺、ああいう顔のできる大人になりたいな…って思った」 「…なれるんじゃない? 英は悟くんと瓜二つなんだから」 そうは言ったものの、今、『悟の想い』を知った渉は、『英が似ているのは見た目だけじゃないんだな…』と、ひっそりと思う。 「いつかはな。でも今はまだ、自分と渉のことだけで手一杯のガキだからな」 「なに、それ」 渉がぷうっとふくれる。 「手一杯なんだったら、僕なんてお荷物、降ろせばいいじゃん」 「ばーか。出来の悪い可愛い兄貴をどうして放っておける?」 「『出来が悪い』は余計!」 腰掛けていた岩から降りようとする渉の腕を取ってサポートすれば、また少し痩せたような気がして不安が募る。 だが、とにかく今は、和真に『信じて待て』と言われたから、待つつもりではある。 けれど、まだどう転ぶのかわからない以上は、直也と桂を近づけないよう、兄を護らねばならない。 これまで大切に大切に護ってきたのだ。 命でもかけてもらわない限り、絶対に渡せない。 そう、生半可な思いで渉に近づくなど、許さない。 |
END |
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