第2幕 「朧月」
「まず、初めに重要な連絡事項があります」 管弦楽部の新年度オリエンテーションが始まった。 ゆうちゃんと部長の理玖先輩の話の後、僕のことが知らされることになっている。 みんなが少しざわめいた。 そのざわめきが収まるのを待って、理玖先輩が口を開いた。 「浅井先生と、部長及び副部長の協議において、今年度、高等部2年の桐生渉を生徒指揮者に任命することとします」 辺りが一斉にざわめいた。 集中する視線に、僕は思わず俯いてしまうんだけど、周りから聞こえてくるのは『やっぱりな』とか、『あるんじゃないかと思ってた』とか『楽しみかも』なんていう好意的な声が多くて、ちょっとホッとしてしまう。 そんなざわめきを理玖先輩が『静かに』と制した後、続けた。 「異議があれば受け付けますが…」 誰も何も言わない。 「異議なしと認めます」 その瞬間、僕はみんなに拍手で迎えられた。 『がんばれよ』とか『よろしくね』とか、たくさんの声を聞いて、涙が出そうになったんだけど、理玖先輩が『渉、一言どうぞ』なんていきなり言いだして、涙が引っ込んだ。 「えっ、ええっ、そんないきなりっ」 ゆうちゃんが笑いを堪えてるのが見えた。 「部長〜、渉は指揮台に乗っけないと喋れないですよ〜」 和真のチャチャに、辺りは大爆笑。新入生まで笑ってるし。 んっとに、も〜。 こんな経緯で、僕は、悟くん以来の生徒指揮者になってしまった。 ゆうちゃんと、部長と副部長が春休み前に協議して承認したトップダウンってことで、みんなの反発招かないかな…って心配してたんだけど、ほんと、認めてもらえてよかった。 僕も、チェロパートは大切なんだけど、英が来るからその点では全然問題がない…というよりは、パートにとっては僕より英の方が絶対ためになるから、心配はゼロ。 チェロパートには入寮日の晩に、全員集まってもらって説明した。 みんな、残念がってくれたけど、やっぱり英が来たっていうことと、僕の指導は面白かったってことで、納得してくれた。 凪が、『チェロパート出身の指揮者ってことで、チェロだけ何かと贔屓にしてね』なんて言って、みんなで大笑いしちゃったけど。 その後の新入生紹介では、やっぱり英が早くも注目を浴びていた。 管弦楽部員では知らない人はいない悟くんにそっくりだって言うのと、堂々として物怖じしない態度がかっこいいって。 高等部の新入部員は、英を含めて5人。 全員が音楽推薦で、ヴァイオリンが1人、ヴィオラとチェロがそれぞれ2人、コンバスと管楽器はゼロ。 中等部は管弦入り乱れて結構な数の新入生がいるけれど、どれだけ残るかはわからない。 まあ、ほとんどの子がゆうちゃんの事前のチェックを通過してるから、技量的には問題ないと思うけど。 で、今年のチェロのオーディションの課題はなんと、『Arioso』。 J.S.BACHの名曲で、美しい旋律が心に残る、何とも優しい曲なんだけど、はっきり言って、何でこれ?って感じ。 去年も同じBACHだったけど、今年の曲とはレベルが格段に違った。 ベートーヴェンのピアノ曲で分かり易く例えてみるとすると、『エリーゼのために』と『悲愴』くらい差がある感じ。 弾くだけでも大変な曲と、弾くだけなら誰でも出来る曲…かな。 だから今年は多分、『どれだけ弾けるか』を見るのではなくて、『どのように弾くか』が見られるんじゃないかと思ってる。 ま、どっちにしても英には大差ない。 一昨年、パパが小品集のアルバムを出したとき、この曲が入ってて、『英にゴーストさせようかなあ』なんて冗談言ってたくらい、英とこの小品の相性はいいから、どんな演奏をするのか、楽しみにはしてる。 そんなわけで英はいいとして、僕が気になってるのは、もう1人の『正真正銘』の子と、凪だ。 音楽推薦で入る子はみんな優秀だから、どんな演奏するのか楽しみだし、凪は、きっとこういう曲は得意だと思うので、このチャンスにできるだけ席次を上げて欲しいなって思ってる。 で、僕は今回オーディションを受けないので、いろんなパートや個人から、『練習見に来て』って誘われた。 あんまりあっちこっちから言われて、時間がわかんなくなりそうで困ってたら、いつの間にか『予約表』なんてものが作られてて、それがぎっしり埋まってて、僕は結構走り回る羽目になった。 かなり大変だけど、忙しいと余計なことを考えなくてすんで、よかったかなあって思ってる。 ただ、行く先々で新入生を紹介してもらうんだけど、覚えきれなくて…。 もともと人の顔を覚えるのは苦手だし、初対面の人と話すのはもっと苦手だし、しかも新入生たちはなんだか僕のことを誤解しているようで…。 特に演奏を楽しみにしているチェロの『正真正銘』、水野真尋(みずの・まひろ)くんを紹介してもらったときにはどうしようかと思った。 綺麗で大人っぽい顔立ちの彼は、目を輝かせて、『先輩に憧れてここへ来ました!』って力一杯言ってくれちゃって…。 横で凪が『そうだろうとも』なんて言ってたけど、なんで僕なんかに…。 でも、そのうちがっかりしちゃうんじゃないかなあ。 だって、演奏してるときの僕はそれなりに普通だと思うけど、実際の僕は、引っ込み思案で人見知りで、話なんて弾まないし…。 ま、いいか。チェロには英がいるし、あっちの方が断然頼りがいがあるから、そのうち英に目が行っちゃうだろう。 とにかく僕は、今できることをなんとかしていくので精一杯。 他のことを気にしてる余裕はないから。 1週間後、オーディションが行われた。 和真も桂も直也も、首席をキープした。 今年もダントツの出来だったから、文句なしってところ。 トランペットは沢渡くんが次席になった。 そして、チェロパートはと言うと。 英が首席なのはもう当然。 目をつぶって聞いてたら、一瞬パパが弾いてるのかと思うくらい、音色がよく似ていて、耳元で甘く囁くような、ちょっと官能的な演奏で、みんなあっという間にメロメロって感じだった。 30代のパパならいざ知らず、なりたて15才の英がああ言う演奏するのもちょっと不健康な気がしたけど。 ゆうちゃんは後で、『英、お前の演奏、ちょっと遊びすぎだぞ』って笑ってた。 英は『だって、普通に弾いてもつまんないし』って言い返してたけど。 で、次席は水野くんだった。 やっぱり音楽推薦の子はさすがに上手いなあって思った。 英の演奏聞いて、『惚れたかも…』って呟いてたのが可愛かったけど。 でっ! なんと、凪が3年生を抜いて、3番目になった! 去年の6番から一気に3番なんて、ほんとすごい。 がんばったねって言ったら、渉のおかげだよ…なんて言ってくれたんだけど、なんだかちょっと顔が赤い。 熱でもあるんじゃないかって心配になったんだけど、よくよく聞いてみれば、卒業した里山先輩から、席次が上がったらプレゼントがもらえることになってるって。 ラブラブなんだ。よかった…。 このまま2人が、お互いを思いやりながら頑張っていけば、きっと『本物』になれる日は近いんじゃないかなあ。 それは、正直なところ、羨ましいなって思う。 出会って、成就して、育って、本物になるって。 恋が愛になるのも難しいと思うけど、それを育てていくのって、本当に難しいことなんだと、何故か僕まで痛感してしまったから。 僕はもう、恋なんて出来ない。したくない。 …違う。 僕はこの恋に囚われたままになるんだ…きっと。独りだけで。 だって、忘れられないし、思い出さない日はない。 どんなにがんばっても、どこかで直也と桂を探してるんだ。 顔を見ることすら出来ないのに。 出来ることなら、去年の夏に帰りたい。 何もわかってなくて、2人の温もりに包まれて、無邪気に笑っていたあの頃に。 でも、2人はああやって、僕に気持ちを伝えてくれていたのに、僕はそれに気づかないどころか、知った後でも自分の本当の気持ちを一度も伝えられないまま。 言えば2人を傷つけるから。 でも、一言だけでも伝えたかった。 『僕も、大好きだよ』って。 『ずっと一緒にいたかったよ』って。 直也…桂…本当に、ごめん……。 ☆★☆ その後、暫くしてから凪に『なにもらったの?』って聞いたら…。 「こ…」 凪が言葉に詰まって真っ赤になった。 「こ?」 なんだろ。こ、こ、コスプレ。…って、もらうもんじゃないか。 「こんゃ…」 「こんにゃく?」 僕はこんにゃくがちょっと苦手だった。 ドイツには売ってなかったし、日本食の食材店にあっても今ひとつな感じだったし。 でも、ここへ来て、美味しいもんなんだってわかったんだけど、でもなんで、こんにゃく? 「なんで、こんにゃく〜!」 やっぱり違ったみたいで、凪が暴れ出す。 「これだよ、これっ」 そう言って凪が、キーホルダーにつけたお守り袋を見せてくれた。 「お守り?」 「じゃなくて、この中身なんだけど…」 いいながら、そっと開けて見せてくれた中には、銀色に光る小さな輪っか。 「…指輪?」 「う、ん」 凪はますます真っ赤っか。 よく見れば、指輪には小さな石も入ってる。 「えっと、こ、婚約指輪…だって」 「婚約!?」 「わ〜! 渉、声がデカイ!」 「あああ、ごめん〜」 慌てて口を塞いで、2人して辺りを見回した。 よかった、大丈夫そう…。 「な、凪っ、婚約、したの?」 「ええっと、まあ、卒業したら、一緒に住んで、社会人になったら、籍を…って」 凪は今度こそ真っ赤に茹で上がって俯いてしまった。 「うわあ」 「あ、誰にもナイショだよ」 「も、もちろん」 そもそも、凪と里山先輩がそう言う仲だってこと自体、ほとんど知られていないから、妙な詮索される心配もないけど。 それにしても。 もしかして席次が上がっても下がっても、婚約指輪だったんじゃないかなって、ちょっと思った。 上がったら『おめでとう』。下がっても『がんばったご褒美』って。 このまま凪が、ずっと幸せな顔でいられますように…って、僕は真剣に願った。 うん、きっと大丈夫だろう。 だって、里山先輩のこと、みんな言うもん。『有言実行の男だ』って。 ☆★☆ それから僕は、授業中も必死で集中し、部活も幸いなことに、5月にならないと合奏に入らないから、中等部の弦楽器を主に担当していて、直也と桂とは顔を合わさずにすんでいた。 けれど、全く彼らとの接点のない毎日もまた、僕を追い込んでいって、僕は徐々に逃げ場を無くしつつあった。 声が聞こえれば苦しくて、聞こえなければ悲しくて、姿を見れば切なくて、見えなければ…落ち込んで…。 ドイツに帰りたい。切実にそう思った。 けれど、逃げても何にもならないとわかっている僕も、ここにいる。 それに、僕は逃げて帰るわけにいかないんだ。 ここでやらなきゃいけないことがある。 ゆうちゃんと約束したんだ。がんばるって。 みんなが期待してくれてるんだ。生徒指揮者に。 だから、ここで踏みとどまっていないといけないんだ。 どんなに辛くても。 でも、そろそろ身体がついてこなくなってることに、気がついた。 どうしよう…。 「渉、もっとちゃんと食べないとダメだろ」 朝の柔らかい日差しが差し込む寮食で、英のチェックが入った。 「あ、うん」 そう、ちゃんと食べないと今日一日の身体が持たない。 僕は小さなブロッコリをお箸で掴む。 あれ? なんか上手く掴めない。何でだろ。 「渉…?」 和真の声がなんだか遠い。 これは危ないなと自分で感じたときには目が回りはじめた。 「おい、渉っ」 英が呼ぶから、声を振り絞って『大丈夫』とだけ答える。 ほんの少し、ジッとしていれば収まるはずだから。 …ほら、治った…。 「渉、食欲なかったら、牛乳だけでも飲めない?」 和真も心配してくれてる。 「うん」 なんとかミルクだけ流し込む。 冷たくて、飲みやすいかも。 とにかく今日一日、なんとか頑張らないと…。 2時間目、体育なんだけど、ちょっと不安…。 登校して、1年と2年にフロアが別れるところで、英が僕に言った。 「あと少しの辛抱だから」 え? …なんのこと? 思わず和真をみたら、和真も小さく頷いた。 「もう少しだから、がんばれ、渉」 和真も…なに? 朝礼が終わった時、古田先生が僕のところにやってきた。 「渉、顔色悪いぞ」 「えと、大丈夫、です」 「いや、ちょっと休んだ方がいいだろう。立てるか?」 先生は僕の机に片手をついて、僕の顔を覗き込む。 …先生の言うとおり、休んだ方がいいかな。 倒れたりしたら、みんなに迷惑かけるし。 そう思って先生の言うことを聞こうと思ったんだけど。 「は、い。立てま…」 あ、また…だ。 目が回って、急に辺りが暗くなった。 周りで何か、たくさんの声がする。 首だけが、身体から離れて落ちたような感覚がした。 身体がふわっと浮いて、耳のすぐ側で先生の声がくぐもって聞こえる。 「安藤」 「はいっ」 和真の声もする。 「1時間目は早坂先生だったな」 「そうです」 「渉の欠席を連…」 先生の言葉の続きが聞こえなくなった。 |
END |
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