第8幕「Storm at early spring 〜春待ちの季節」
【3】
渉の様子が変わった。 それは、ある意味劇的な変化で、和真は少なからず戸惑った。 直也と桂の様子からすると、おそらく引導を渡されたのだろう。 しかも、和真が恐れていた最悪の方向に。 どちらかを選んでくれたら…。 そう願っていたのに。 ――やっぱり、振られる方に遠慮したのかな。 残念ながら和真には、渉がどちらに惹かれているのかわからなかった。 だから、どちらがどちらの所為で振られる方に巻き込まれてしまったのかはわからない。 いや、和真的にはそんなことはどうでもいい。 どっちが愛されようが、振られようが、それは自分が関知することではないし、渉が幸せならそれでいいことだから。 渉は、先日までの、物思いに沈んだ様子をすっかり脱ぎ去った。 妙にすっきりと、吹っ切れた顔つきになった。 けれどそれは良くない変化だった。 渉は、笑わなくなってしまったのだ。 普段の生活の様子は 一見しただけでは 変わらない。 食事も普通に摂るし、授業中も集中しているように見える。 元々大人しくて、自分から話し始める方ではないから、クラスメイトも変化には気がついていない。 けれど、注意深く見ている和真にはわかってきた。 渉が明らかに無理をして、『普通』を装っていると。 いつも渉の側にへばりついていた直也と桂との距離も、さすがに微妙に開いている。 ただ、そこはやはり、直也と桂も配慮をしているのだろう。 いきなり距離をとってしまっては、あらぬ詮索をされるだろうから。 それでなくても、直也と桂は目立つから。 和真は珍しく判断に迷っていた。 渉にとって、辛い決断であったことは間違いない。 その決断を尊重してあげたいという気持ちと、何とかしてあげたいという気持ちがせめぎ合う。 ただ、このまま無理を続けると、いつかバランスは崩れる。 渉の身体が耐えきれなくなる可能性もある。 どこでどう動けばいいのか。 和真もまた、緊張を強いられていた。 ☆ .。.:*・゜ 渉の様子がおかしいことに、祐介も気づいていた。 年明けからの指揮法のレッスンで、これまでよりも2人きりになる機会が増えたおかげで、すぐに気づくことが出来た。 集中はしてるのだが、何かから必死で目をそらそうとしているようにも見える。 おそらく、直也と桂が原因だろう。 2人の様子にも変化が見られたから。 天真爛漫で、何事にもポジティブな2人が、時折ふと、揃いも揃って深く傷ついたような表情を見せることがある。 ちょうど渉の変化を感じていた頃と、時期的にも一致する。 誰かが身体を壊すまでになれば介入もいたしかたないが、できる限り、彼ら自身で解決させないと、後々まで禍根を残すと考えて、今暫く見守るしかないだろう。 出来ることなら、どの子にも傷ついてほしくない。 けれど、自分たちもそうだった。 誰かが幸せになるとき、誰かが傷ついた。 ただ、その傷が癒えるとき、心は一段と強くなる。 だから、必要なステップかも知れない。 けれど、できることなら穏やかな日々であって欲しい。 そう、願った。 ☆★☆ あれから僕は、指揮法のレッスンに励んでいた。 ある程度進んできたので、これから学年末までは、とりあえず中等部の全体練習を見ることになった。 慣れないうちは、年下の方が気兼ねが少なくていいだろうという、ゆうちゃんの配慮だ。 こうして僕は、指揮台という、今まで考えもしなかった場所に上がるようになったんだけど、暫くして、楽器を弾いている時のようなもどかしさを感じなくなっていることに気付いた。 楽器に触れるたび感じていた、『こんなんじゃないのに…』っていう、持って行きようの無い焦りが、ここでは感じない。 多分、中学生たちが素直で、僕の言うとおりに――結果、思い通りにならないこともあるけれど――一生懸命演奏しようとしてくれていることも、もちろんある。 でも、こうしてたくさんの音を組み上げていくことが、こんなに充実した作業だとは思わなかった。 こうして僕は、部活に集中することで、バランスを保とうとしている。 できる限り、余計なことを考えない。 考えてしまうと、食べられなくなるし、眠れなくなる。 でも、それで身体を壊してしまったら、きっとまた、みんなに心配と迷惑をかけてしまうから。 あれ以来、相変わらず僕の側には直也と桂の姿がある。 けれどその距離は少し遠くなっている。 周囲が気づかない程度に、自然に。 そう、まだ僕を護ってくれているんだ。 話すことも減った。それはもう、激減。 日によっては、『おはよう』しかないくらい。 もちろん、以前のように視線があうこともない。 それもこれも全部、僕の所為だ。 それで僕が辛いのは、自業自得だから。 ただ、ひとつ、僕をホッとさせているのは、直也と桂は相変わらず一緒にいて、以前のように仲良くしていること。 だから僕は何度も、これで良かったと自分に言い聞かせている。 ☆★☆ 『『Yes』とは言えない』 そう聞いたとき、身体の芯まで凍りついた。 「じゃあ…『No』…ってこと?」 どうにか絞り出した声は、可笑しいくらいに震えていて。 けれど渉は言った。 「…うん」…と。 自分は敗れたのだと、直也も桂も思った。 部屋へ戻れば、相方を祝福してやらねばならないのだと。 だが、顔を合わせたお互いは、同じように、この世の終わりのような顔をしていた。 まさかの結果に、2人が受けたショックは大きかった。 けれど、それで渉を責めるわけにはいかない。 彼はこの結果を選んだのだ。 気持ちは十分伝わったはず。 その上で『No』という答を受け取ったのだから、それを受け入れるしかない。 けれど、納得はいかない。 どちらかは必ず、渉の想いを受け取れると思っていたから。 ふと、和真の叱責を思い出す。 やはり、自分たちは急ぎすぎたのだろうか。 渉の気持ちが熟すのを待てなかったのだろうか。 だが、それもこれも多分、未練だと思った。 それに、振られたからと言って、好きだという気持ちを今すぐ捨てられるものでもない。 いつか切り替えられる日が来るのかもしれないが、今はまだまだ無理だ。 渉が恋しくて、愛おしいと言う気持ちは変わりない。 いや、強くなったかも知れない。 だから、まだまだ自分たちは渉を護っていこうと決めた。 他の誰かに、その役目を取られてしまう日まで。 けれど、できることなら誰にも取られずに、このままずっと、この手で護っていきたい。 想いが封じ込められたまま見守るだけなのは、きっと辛いに違いない。 それでも、どれもこれも諦めきれない。 想い続けていたい、護り続けていたい。 そして……やっぱり、抱きしめたい……。 こうして、渉が必死でそのバランスを保とうとしている時に、直也と桂もまた、バランスを取ろうと懸命になっていた。 が。 ほんの些細なきっかけが、そのバランスを崩してしまうことになる。 ☆ .。.:*・゜ 年度末が近い部活動は、雑用も多い。 1年分の楽譜や資料の整理・廃棄は毎年かなりの重労働になる。 ある放課後、直也と桂は楽譜の整理に追われていた。 楽譜のコピーは原則禁止されている。特に、オーケストラ譜の管理は厳しい。 けれど、学校などの教育機関では、用途を限って一時的なコピーが認められる。 しかしそれももちろん、持ち出しは出来ない。 コピーの部数は記録されていて、本番が終われば、全て回収して廃棄する。 それをチェックするのは大変な作業だ。 「毎年うんざりな量だよな」 「ほんとだな…」 口数も少なく、2人は黙々と作業を進める。 他の部屋でも、別の楽譜を整理していて、かなりの人数がホール内にいるはずだが、みな集中してやっているのか、いつになく静かだ。 ノックの音がした。 「中等部のコピー譜…」 ドアを開けたのは、渉だった。 中等部から楽譜を回収してきたのだろう。かなりの量を抱えている。 中にいるのが直也と桂だとは思っていなかったのだろう、渉は固まった。 直也と桂も、まさか渉が来るとは思っていなかったため、瞬間動きを止めたが、すぐに何もなかったようにやってきて、渉の楽譜を受け取った。 「ごめんな、重かっただろ?」 「ひとりで持つと、危ないぞ」 優しい言葉も、今は辛いだけだが、渉は小さく首を振って、『大丈夫』と答える。 見れば、直也と桂が担当している楽譜は、他の部屋より多いようだ。 「あ、あの…手伝おう、か?」 意を決して言ってみた。 だが。 「気を遣わなくっていいよ」 「無理すんなって」 2人は渉と目を合わせないまま、そう言った。 「そう、だね。ごめ…ん」 柔らかな拒絶に、2人との完全な終焉を思い知り、言葉の最後はすでに、涙で震えていた。 絶対泣かないと決めていたのに、自分は泣いてはいけないのだと何度も言い聞かせていたのに、一度溢れてしまったら、もう、壊れたように止まらなくなった。 とにかくここから逃れたい。その一心だった。 そして、走り去る渉の背中を、2人は呆然と見送った。 今、なんと言ってしまったのか。 自分の辛さを、言葉に含ませてぶつけてしまったのではないか。 渉には何の落ち度も無いのに。 追いかけようとした足は、後悔と自己嫌悪に絡め取られて動かなかった。 |
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