第5幕「Autumn Leaf〜紅葉の季節」

【3】





 ザッと調弦して僕は楽器を構える。

 実際、コンチェルトのソロを、バックなしで演奏するのはちょっと厳しい。オケあってのソロだから。

 でも僕は、意識を集中して頭の中でオケを鳴らしてみる。

 冒頭のクラリネットから低弦へ、さらに管楽器群が続き、やがてチェロのソロが迎えられて…。

 3楽章で約40分。

 その間僕の頭の中はずっとオーケストラが鳴っていて、僕のチェロと共鳴していた。

 そして僕は最後のロングトーンを引き切って、息をついた。


「…すご…」

 和真が呟いた。

「なんか、オケが聞こえたような気がする」
「…俺も聞こえた…」

 そう、かな。
 もし本当にそうだったのなら、僕の中にこの曲がちゃんと根付いてるってことだ。

 桂が僕の手を取った。

「正直、渉の演奏に俺たちがついて行けるのか、そっちの方が不安になってる」

 え、そんな事は…。

「でも、挑戦してみたいと思った。渉と1つの曲を、やりきってみたい」

 直也が僕の肩を抱く。

「僕らのチェロコンチェルトに、しよう?」

 和真がにこっと笑う。

 僕はもう1度彼らの顔をしっかり見て…決めた。

 そう『腹をくくる』っていうのはこういうことなのかな。

 ここでは僕の音楽は僕だけのものではない。 みんなで1つ。
 それは何度も感じたこと。

 だから、ソリストって言っても、その中の1つの楽器だと思えばいい。

 ソロとオケ…じゃなくて、みんなで1つ。

 僕は、弾ける。
 だから後は、みんなと一緒に走ればいい。 
 1つのゴールに向かって。


「…僕、やってみるよ」

 3人の顔が輝いた。

「やった!」
「そうこなくっちゃ!」
「面白くなりそうだな」


 それから急遽楽譜が配られて、まださほど進んでいないとは言え、先に決まってた曲の練習に入ってたから、メインメンバー全員が譜読みのし直し…ってことになったんだけど、何故かみんな結構楽しそう。

 コンチェルト…って言う所為もあるかもしれない。

 シンフォニーに比べると、どうしてもハードルが高くなってしまうから、なかなか演目に上げられないって聞いたことあるし。


 里山先輩は、僕の両手をしっかり握って、何度も何度も『ありがとう』って言ってくれた。

 高3の先輩たちも、チェロパートのみんなも。

 でも、『ありがとう』って言わなきゃいけないのは僕の方だと思う。

 ただゆうちゃんの側にいたいって言う理由だけでここに来た僕に、新しい目標を与えてもらったから。

 絶対無理だと端っから諦めて、目を背けていた僕の顔を上げさせてくれたから。


 そして12月の定演に向けての練習が始まったわけだけど、僕はソロの練習自体はあんまり必要じゃないから、チェロパートの練習につきあいつつ、各楽器の首席奏者との1対1の練習スケジュールを組んでもらった。

 チェロのソロと、いろんな楽器の首席奏者との掛け合いがとても多い曲だから。

 特に多いのは、フルートとオーボエ。

 この2つほどではないけど、コンマスとの掛け合いもある。


                    ☆★☆


 そして、和真との練習の日。

 何度も演奏しながら細かい調整を重ね、良い感じに仕上がってホッと一息…ってところで和真が言った。 

「でもさ、渉」
「…ん?」
「考えてみればこれは凄いチャンスだよ」
「なに、が?」
「だって、渉は浅井先生が大好きだろ?」
「うん」

 …ってなんで知ってるんだろ、和真。

 あ、もしかして見てたらバレるくらい、僕、ゆうちゃんのことばっかり見てるんだろうか…。

 ちょっと気をつけないと、マズいかも…。

「先生の指揮でコンチェルトできるなんて、二度とないかもよ?」

 …あ。
 そうだ。 それこそ『期間限定』のオケ、なんだ。

 僕がゆうちゃんと同じステージに上がれるのは、高校の3年間だけ…だ。

 それが、しかも、『指揮者とソリスト』なんて…。

 和真の言うとおり、もう二度とないチャンスかもしれない。

「和真…」
「ん?」
「僕、がんばる」

 和真が吹き出した。

「渉ってば可愛い〜」

 ちょっと分かり易すぎてなんだかな…って我ながら思ったんだけど、僕は俄然張り切ってしまった。

 なのに…。



                   ☆ .。.:*・゜



「…え?」

 ゆうちゃん、今、なんて言った?

「それ、実現したら凄いですね」

 音楽ホールの舞台袖で、新部長の理玖先輩が、ゆうちゃんと笑いながら話してる。

「コンチェルトに変更になる前のことなんだが、定演の時期にこっちにいるから聴きに来られるかも知れないって聞いたんだ。 それなら振ってもらえたらなあってチラッと思ったりしたんだが。 まあ、その日だけ空いていても仕方がないことだけどな」

「確かにそうですね。最低3回は合わせがないと不安ですし…。でも、僕らもいつか、桐生悟さんみたいな世界的指揮者に振ってもらえたらなあって、憧れますね」

 ゆうちゃんは、コンチェルトの指揮に悟くんを呼ぼうかな…って言ったんだ。

 どうして? ここの指揮者はゆうちゃんだよ?
 ゆうちゃんと僕たちのオケ…なのに。

「まあ、ダメ元で一度打診してみてもいいんだがな。最後に客演に来てくれてからもう6年も経ってるから」

 …やだ。やだよ。
 悟くんは大好きだけど、でも、僕はゆうちゃんでないとやだ。絶対ヤダ!

「渉? どうした」

 ゆうちゃんが僕に気がついた。

「やだっ! ゆうちゃんでなきゃやだ!」

 ここへ来てから、絶対みんなの前で『ゆうちゃん』なんて呼ばなかったのに、僕はそんなことも忘れて、ありったけの声で叫んでしまった。

「…渉…」

 目を見開くゆうちゃん。

 その驚いた顔に、僕の中の張り詰めていた何かがプツッと音をたてた。

 そして、何も考えられないままに、足は勝手に駆けだした。

 後ろから、ゆうちゃんが僕を呼ぶ声がした。

 でも、止まれなかった。



                    ☆ .。.:*・゜



「危ないっ」

 後先考えず、必死で走っていた僕が何かにつまずいた瞬間。
 声と一緒に僕を抱える腕があった。

「は〜、間一髪だぜ」

 直也…。桂…。

「いや、それにしても意外と足早いな、渉ってば」
「そうそう、俺たち学年でもトップクラスのタイムなんだけど、結構手こずったな」

 …どうして、2人が…。

 見上げた瞬間、僕は激しく咳き込んだ。

「わあああ、大丈夫かっ」
「ゆっくり深呼吸しろっ」


                     ☆★☆


「落ち着いたか?」

 漸く咳の治まった僕を大きな岩の上に座らせてくれて、2人が僕を挟むように座ってきた。

「…ここ、どこ?」

 見たことのないところ。
 木が茂ってるけど、空が見えないほどではなくて、よく見ればちょっと遠くに音楽ホールの屋根が見えている。

「なんだよ、行く当てもなく走ってたわけ?」

 桂が笑う。

「ここは寮の裏山だよ。格好の隠れ場所…でもあるな」

 直也が教えてくれる。

 こんなところまで走ってきちゃったんだ…。

 …今頃ゆうちゃん、怒ってるかな。
 だって、あんなこと言っちゃって、部活もサボっちゃって…。

 って。

「直也! 桂!」
「なに?」
「どした、急に」
「合奏! 始まってるんじゃ…」

 僕は今日は見てるだけだけど、2人はステージに乗ってなきゃ始まらない。

 だって、フルートの首席と、コンマスだよ。
 どっちが欠けても話にならない。


「あはは、今さらだろ」
「そうそう、和真が上手いことやってくれてるって」
「でも…」
「ま、たまには首席の代理ってのも勉強になるしな」
「そうそう、コンマス代理なんて滅多にできないし?」

 そんなあ…。

「気にすんなって」
「そのうち和真が探しにくるって」
「それまでここで森林浴でもして、のんびりしてよ〜」

 なに暢気なことを…って、僕の所為か。

 なんだかまた迷惑かけちゃった。

 僕ってどうしていつもこうなんだろう。
 なんでもうちょっとちゃんとできないんだろう。


「…ごめん」
「え?」
「なにが?」

 両側から僕を覗き込む、ハンサムと男前。
 いいなあ、顔も良くって優しくて…。

「いつも、迷惑ばっかりかけて、ごめん…」

 せめて素直に謝らないと、人としてどうなんだってことだよ。

「何言ってんだ」

 右側から直也が僕の頭を小突く。

「渉が俺たちに迷惑かけたことなんて一度もないよ」

 左側から桂にも小突かれた。

 そんな風に労られたら、僕はどうしていいかわからない。

 いっそ、『ほんと、迷惑だからもうちょっとしっかりしろ』って言ってもらえた方が……って、やば…目が熱くなってきた。

 これ以上醜態を晒したくなくて、きつく目を閉じて俯いた僕を両側から包んでくれる温かい腕。

「なあ、渉。どうしたらわかってくれる?」

 え?

「俺たち、渉が大切で仕方ないんだ。だから、信じて頼ってくれよ」

 …それって。

 確か9月の始めの頃、和真が『安心して僕たちに預けて』って言ってくれたのと、同じ…?


 直也…桂…。

 思わず顔を上げて2人を交互に見つめてしまった僕の目尻を、直也が優しく拭ってくれた。

 桂もそっと背中を撫でてくれる。

「ありがと…」

 小さく呟いたら、2人とも嬉しそうに笑ってくれた。


                     ☆★☆


「いたいた」

 しばらく3人でぼんやりしていたら、和真がやってきた。
 そして、いつもと変わらない調子で微笑む。

「結構探したよ。こんな奥まで来てるなんて」
「だろ?」
「渉、本気で走ると結構足早いんだぜ?」
「へ〜そうなんだ。それは発見発見」

 和真はそのまま僕の前まで来て、片手を差し出した。

「浅井先生のとこ、行こ?」
「…和真」
「大丈夫。先生とゆっくり話しておいで」
「でも…」

 ゆうちゃん、きっと怒ってる。
 僕はどんな顔して会ったらいいのか、わからない。怖い…よ。

「先生、心配してたよ。合奏中も気になって仕方なかったんだと思う。だって、先生が振り間違えるとこなんて、初めてみたから」

「えっ、センセ、振り間違えたのか?」
「そりゃレアな場面だな、見たかったな〜。残念」

「だろ? しかも振り間違えてちょっと狼狽える先生に、萌えるヤツらの多いこと」

 燃える? なんで?

「あはは、さすがバレンタインチョコ獲得数ダントツ1位・学校一の男前教師。ミスすら萌えネタってか」

 ああ、その『萌える』…か。

 って、チョコナンバーワン? ゆうちゃん、やっぱりモテるんだ。
 あんなに素敵だから当たり前か…。


「準備室まで僕も一緒に行くから。ね」

 優しく和真に促され、僕はのろのろと立ち上がる。

 準備室までの、長いのか短いのかわからないような曖昧な道のりを、3人はわざと可笑しい話ばかり続けて、僕の気持ちを軽くしようとしてくれた。

 3人の心遣いに、逃げてちゃダメなんだ…と自分自身に何度も言い聞かせているうちに、目的の場所に着いてしまった。


「ゆっくり話しておいで」

 ノックをして、扉を開け、僕をそっと中へやる。

 後ろで扉が閉じる音がした。

 でも、僕はそこに立ち尽くしたまま、動けなくて。


「…渉」

 ゆうちゃんの影がゆっくりこっちへやってくる。

 僕は、顔を上げることすらできない。

 でも、ゆうちゃんはそのままこっちへやってきて、僕の目の前に立った。

 そして、僕はそっと抱き寄せられた。
 その瞬間。

「ごめんなさいっ」

 僕の喉を、ついて出たのはやっぱりこの言葉で。
 情けないことに、涙までついてきた。

「…ごめんなさいっ…。もう二度と我が儘言わないから…っ。僕を…僕を嫌いにならないでっ……」

「嫌いになんかなるもんか」

 ぎゅっと抱きしめられて、僕はその言葉を聞いた。

「…愛してるよ、渉」
「ゆう…」
「世界で1番愛おしい甥っ子だ」

 その一言は僕を打ちのめした。
 そして改めて思い知った。

 僕は、永遠に甥っ子以外の何者にもなれないのだと。

 そんな当たり前の事に気づくのに、何年かかっただろう…。

「不安にさせてごめんな」
「…ゆうちゃん…」
「コンチェルトはちゃんと僕が振るから、渉は何にも心配せずに、弾けばいい」

 …ほんと、に?

「僕とみんなと、一緒に…な?」

 涙でゆうちゃんの顔が見えなくなったけど、僕は小さく頷いた。

「良い子だね、渉…」

 そしてゆうちゃんは、僕の涙が止まるまで、ずっと抱きしめていてくれた。




 その後。

 僕のせいでゆうちゃんは最近『ゆうちゃん先生』なんて呼ばれてる。

 同級生たちは『渉が人前でも遠慮なく『ゆうちゃん』って呼べるように、俺たちもそう呼ぶことにした』なんて言うんだけど。

 その件に関してだけは、ゆうちゃんに恨まれている僕だった…。

END

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