幕間「君に伝えたくて」
それはある日の部活開始直前のことだった。 ホールの舞台袖で浅井先生が、客演指揮に桐生悟さんを呼ぼうか…なんて話をしていて…。 それ、ちょっとマズくない?って思ったら、隣ではすでに渉が手を握りしめているのが見えた。 ――ヤバイ! そう思った瞬間。 「やだっ! ゆうちゃんでなきゃやだ!」 渉が声の限り叫んで、駆けだして行ってしまった。 僕は当然、それを追いかけようとしたんだけど、それより早く、直也と桂が駆けだしていたから、ま、あっちの方が足早いから任せとこうってことで。 「先生…」 僕はこっちの方が気になって、先生の顔を見上げた。 「…安藤…」 先生ってば、何が起こったかわかってないって顔してる。 ふふっ、男前ってこんな顔してもかっこいいんだ。 「大丈夫です。直也と桂がついてますから」 「あ、ああ…」 「部活終わったら、先生の部屋に行かせますから、話聞いてやって下さいね」 「…心当たり、あるのか?」 ってことは、先生マジで何にも気がついてないんだ。渉の気持ち。 まあ、可愛くて仕方なくても、『甥っ子』だもんね。 それ以上の感情なんて、普通は考えもしないことだし。 僕は渉が先生に、叔父と甥以上の感情を持ってることには気づいていたけど、周りは渉の事を『ほんと、叔父さん大好きっ子だよなあ』なんて、素直に受け取ってる。 その方が渉にとってはもちろん良いけれど。 ただ、直也と桂は何か感じたらしい。ずっと渉の事を見ているから。 ま、いずれにせよ、渉の感情を先生が受け入れるはずはないし、そもそも――これはうちの翼っちからもぎとった極秘情報だけど――浅井先生には恋人がいるって話だから。 もちろん校外に。 それにしても。 あの大人しくて引っ込み思案の渉が、あろうことか『ゆうちゃんでなきゃやだ』なんて可愛い癇癪起こして走り去っただけでも、向こう1年分くらいの萌えネタを提供しちゃったってのに、浅井先生まで狼狽えて振り間違えるんだもん。 これはもう、10年後の同窓会でもネタにされること請け合いって感じ。 しかしまあ、先生も分かり易いっていうか。 何もない状態でもし振り間違えようものなら、部員一同、『先生、具合悪いんじゃないのか』って不安になるところなんだろうけど、可愛い甥っ子の『やだやだ攻撃』が原因だもんねえ。 真面目な顔して弾いてるように見えて、なんだかみんな口元が緩んでるし、休憩時間にも『俺、あらぬ妄想に走っちゃいそう』なんて言ってるヤツ多数でさ。 まあ、渉の気持ちになったら可哀相な話なんだけど。 でも、ごめん渉、可愛すぎてちょっと面白いかも…。 ☆ .。.:*・゜ 部活を終えてすぐ、祐介は葵にメールを入れた。 出来ればすぐに連絡が欲しいと。 葵が今どこで何をしているのか、特に把握はしていない。 時差があるかも知れないし、本番中かもしれない。 だが、今は葵に頼るしかなかった。 情けないが。 葵からの電話は15分ほどでかかってきた。 運良く、成田へ着いたばかりだと言う。 『どうしたの? 珍しいね、すぐ連絡が欲しいって』 そう言いながらも葵は、祐介からの返事を待たずに言った。 『渉、どうかした?』 そう、渉が『どうかした』のだが、まったくわからない。 祐介はその場の状況を出来るだけ細かく説明したのだが、最後まで聞くまでもなく、葵は笑いながら言った。 『祐介に振って欲しいんでしょ、渉は』 けれど、それだけであんな風になるのだろうか。 しかしその疑問も、葵は笑いながら一蹴した。 『あのね、そもそも渉がどうして聖陵に行きたいって言いだしたかわかってる? 祐介がいるからなんだよ? あの子は物心着いた頃からずっと祐介が好きだよ。 祐介がいたら他の誰にも目をくれずに祐介に抱っこをせがんでたしね。 それを祐介は、『他の誰より一番会う機会が少ないからじゃないか』なんて言ってたけど、人見知りのきつい渉の性格を考えたら、普通、一番会う機会の少ない叔父なんて、敬遠されるだけじゃない。 ほんと、祐介ってば相変わらずそう言うところ鈍いんだから』 言葉の最後にクスクスと笑い声までつけられて、祐介は返す言葉がない。 まったく気がついていなかった。 よもや、自分を追いかけてここへ来たとは。 けれど、もちろんその気持ちに応えてやることはできない。 自分たちは血の繋がった叔父と甥だ。 いや、それ以上に、自分には愛する人がいるから。 今自分にできることは、叔父として精一杯の愛情を注いでやること、それだけだ。 それを葵に告げると、『うん、その通りだね』と、珍しくもしおらしい声が返ってきた。 それを指摘するとまたややこしいことになるので黙ってはおくが。 とにかく、これで渉に対してどう接するのかは見通しがついた。 やはり、葵に連絡してよかったと、小さく息をつく。 『で、渉がコンチェルトやるって言うの、みんな知ってるの?』 この場合のみんな…とは、桐生家ご一同様のことに他ならないのだが。 「いや、まだ誰にも話してない。渉が言わないでくれって言うんだ」 『そうなんだ〜。じゃあ、僕と祐介と渉だけのナイショなんだ』 こっそり聴きに行って、渉を驚かせちゃおうかな〜なんて、ワクワクした声で言っている。 「何言ってんだ。スケジュールいっぱいのくせに」 『へへっ、実は定演の日、空けてあるんだよ。みんな』 「みんなって?」 『みんなったらみんなだよ。渉がオケに乗るのに、祐介のお父さんとお母さん以外、誰も聴きに行けてないんだよ。夏も聖陵祭も。だから、定演は絶対って思ってたしね。ふふっ、コンチェルトか〜、楽しみだなあ〜』 浮かれまくっている葵の声に、なんだか一騒動起きそうな気がして、祐介は頭を抱え込む。 『で、なんのコンチェルトやるの?』 「あ、ああ、ドヴォルザークのチェロコンだ」 『え、渉、チェロやってんだ。 僕はまたてっきりヴァイオリンかフルートやってるんだと思ってたよ。 あ、でもヴァイオリンには桂くんがいるし、フルートには直也くんがいるか。どっちも首席レベルだもんなあ』 万事に察しのいい葵は、自分で話を振って勝手に答えをだしている。 『そっか、ドヴォルザークかあ…』 言いたいことは、祐介にもなんとなくわかった。 『なんか不思議だね。守と隆也が最後にやった曲だ…』 「そうだな。まさか息子たちが同じステージで再演しようとはな…」 しかも、その直也は渉を熱い瞳で見つめている。 それはまだ、葵には告げないでおくけれど。 『とりあえず、近いうちに一度、ナイショで様子見に行くよ』 そう言って葵は通話を切った。 ☆ .。.:*・゜ 「なんか、やたら可愛かったっていうか…」 「驚いたというか…」 深夜の410号室。 NKコンビが今夜もこそこそと話をしている。 「まさか渉があんなに先生ラブだったとはなあ」 「よもや僕たちにあんなデカいライバルがいたとはなあ」 「まあな。でもいくらデカくても、血が繋がってるからな。浅井先生が受け入れるはずないじゃん」 「そりゃそうさ。でも渉の気持ちを考えるとなあ…」 「また落ち込むかなあ、可哀相に…」 「…忘れさせてやるってのも、手だけどな…」 「おい、直也。強硬手段は…」 「わかってるって。渉に無理強いは絶対にしない。それはお前との約束だし、自分の気持ちへのケジメでもあるさ」 「ああ、そうだな。…でも、確かに忘れさせてやりたい…とは思うな」 募る思いはここのところ急激に身体から溢れそうになり始めていて、それを2人ともひしひしと感じている。 「…なあ、告白も、制限アリ…か?」 「…まさか。自分の想いを伝えるのに、誰に遠慮がいるもんか」 「…だな」 その思いはすぐに、行動に表れた。 もちろん無理強いはしない。あくまでも渉を慈しむ。 それは誰に言われるでもなく、2人にとって当たり前のことだから。 ☆ .。.:*・゜ ――今日はフルート首席とソリストとの最終合わせ。明日はコンマスとソリストとの最終合わせ。 もう一度予定表を確認して、直也は小さく頷いた。 今日…と、決めた。 渉と2人きりの2時間の練習は、いつになく集中できた。 きっと自分の気持ちに揺るぎのない自信ができたからだと直也は思う。 「なんだか良い感じになったね」 楽器を片付けながら、渉が嬉しそうに言った。 「…渉…」 背後からそっと声を掛けた。 「なに?」 少し振り向いた華奢な身体をそっと抱き込む。 「な、直也?」 腕の中の愛しい人はやっぱりふんわりと甘い香りがする。 瞠った目で見上げてきた渉に、いつものように柔らかく笑いかけることはできなかった。 堅くなる身体を、今度はぎゅっと抱きしめた。 そして、告げた。 「渉…好きだ」 |
END |
『第6幕 Moonlight Sonata〜月明かりの季節』へ
事態が差し迫ってくると小ネタを挟みたくなります。
『おまけ小咄〜和真くんはミタ。2』
『ゆうちゃん事件』 これは、渉にとっては可哀相なことに、すでに管弦楽部で伝説化され始めている。 ま、ぶっちゃけ『妄想』のネタってことだ。 で、そこで流行っちゃったのが、もう一度渉に『ゆうちゃん』って呼ばせようなんて企みで。 渉の可愛い声が『ゆうちゃんでなきゃやだ!』って駄々をこねたのが、あまりにも萌えだったもんだから、みんな調子こいちゃってさ。 もちろん渉は『絶対言わない』って、頑なに拒んでる。 そりゃそうだろ。 まあ、あんまりしつこくして渉のストレスが溜まるようなら、ちょっとガツンと言ってやらなきゃな…なんて思ってたんだけど。 あるとき先生が爆弾発言を落とした。 『お前たちに心配してもらわなくても、2人きりの時はちゃんと可愛い声で『ゆうちゃん』って呼んでもらってるよ』なんて。 この一言で、悶え死にしたヤツ多数。 渉も横で灰になってたけど。 しかし先生も言うようになったね。 で、この『ゆうちゃん事件』の日を境に、渉の中で何かが少し変わったみたいだった。 どんな話をしたのかは聞いてない。 渉が話したければ聞くけれど、わざわざどうだった…とは聞かないことにしてる。 先生と渉の間で交わされた会話は、多分渉にとって辛い内容で、でも吹っ切れる何かを掴んだ内容だったんじゃないかとは思ってるけど。 とにかく、渉が乗り越えられればそれでいいから。 そうそう、ちょうど、コンチェルトに差し替えるって騒ぎが起こった頃だった。 渉に聞いてみたんだ。 『直也と桂の恋の相手が誰なのか、教えてって言わないね』って。 気にはしている。 それは確実なんだけど、具体的に誰なのか教えて欲しいと渉は一度も言わないから、興味がないのかと思ったら、そうでもなさそうで。 『う〜ん。なんかね、聞きたくないっていうのもあるかなあ』 かなり意外な答えが返ってきたから、どうしてって尋ねたら。 『…どうしてかなあ。気にはなるんだけど、知りたくないかなあ』 へ〜。それってもしかして、意識してる? よかったじゃん、NKコンビ。 涙ぐましくも暑苦しいアピールが、少しは功を奏してるみたいじゃない? なんて思ってたら。 ある日を境に渉の様子がおかしい。 どうも直也と桂の動向に気を取られてるようで…。 …もしかして、ヤツら、告ったのか? |
おしまい |
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