幕間「この手を伸ばしても」

【2】





 チェロという集団を引っ張らざるを得なくなった渉が、一体どういう行動にでるのか。

 見守ってきた祐介にとって、渉が出した結果はあまりにも驚きだった。

 チェロパートのメンバーが素直だったことや、渉の物腰が柔らかくて反発を招きにくいことを差し引いたとしても、この短期間にあそこまでの結束を見せたのは、驚き以外の何ものでもなかった。

『よくやったな』と褒めたときも、嬉しそうに頬を染めながらも、みんなで出した結果だといった。

 引っ込み思案で人見知りなのに、それでも人の心を捉えてしまうのは、おそらく彼の愛すべき人間性と内側からあふれ出る音楽所以だろう。


 祐介は去年、渉が聖陵を受けたいと言い始めた頃の、葵の言葉を思い出していた。


『そもそも僕は、芸術的能力が血の中に受け継がれるものかどうかなんていう議論には興味がない。 僕たちの音楽家としての価値は、音を出した瞬間に決まるんだから、そこへ至るまでの生まれや育ちや来し方なんてのは自分だけのものであって、聴衆には関係ないんだから。
 でもね。 もし仮に、音楽家のDNAというものが存在するとして、僕たちの中にそれがあるのだとしたら、渉は間違いなく、そのDNAの結晶だと思う。
 渉は、楽器はもちろん、理論や作曲まで何でもこなす。 
 それを彼はただの器用貧乏だと思いこんでいるけれど、それは違う。
 僕だけじゃない、そのことはもう、周囲はみんな気がついている。
 守はもちろん、僕たち叔父もそうだし、お父さんもお母さんも。
 英だって多分気がついてる。
 渉が自覚していないだけなんだ。
 あの子は本物の天才だよ。 僕なんて足元にも及ばない』



 祐介は日本をなかなか離れられない身で、渉ともそうは会えなかったため、彼がどんな風に音楽と向き合っているのか知らなかった。

 その腕前だけは、姉が送ってくる映像で知ってはいたのだが。

 けれどあの葵が言うのだ。 
 それはもう、まさに特異な才能。

 そして周囲はその繊細な心の取り扱いについて、非常に神経をつかっている。 

 『ガラスの心臓』と聞かされて、祐介もその覚悟で引き受けた。

 しかし、入学以来の渉の様子を見てきて、本当にそうなのかという思いに駆られている。

 引っ込み思案で人見知りでも、だからといって神経が脆弱とは限らない。

 渉は確かに、ひっそりと静かにだが、周りにゆっくりと順応しているではないか。

 渉の繊細さはひょっとしたら『ガラス』ではなくて『薄くて柔らかい羽』なのではないか。


 そう思い至ったとき、ふと閃いた。

 もしかすると、まだ内側に隠れている本当の渉は、その大きな羽を広げられる場所を探しているのではないだろうか。

 いや、まだ羽の広げ方を知らないのだ。

 まだ熟し切らない身体と心の中にある羽が、他の誰よりも大きすぎて、まだ上手く扱えないだけだとしたら。

 ――大化けするかも、知れないな…。

 その瞬間に立ち会えたらどれだけ幸せだろうかと、祐介は小さく笑った。



                   ☆ .。.:*・゜



「なんであそこで突っかかってくるんだよ」
「何言ってんだよ、突っかかってきたのはそっちだろ」

 不毛な言い合いをぎゃあぎゃあと続けながら、NKコンビは音楽ホールへやってきた。

「あれ? 渉は」

 先に来ていた和真が周囲を見回す。

「なんか忘れ物ってさ」
「チェロの教則本取ってくるって、部屋へ戻った」

 ――なんだって?

「渉、置いてきたわけ?」

「や、ついていくって言ったんだけど」
「いや、俺が行くって言ったんだ」
「何言って…」

「でっ?!」

 和真の大声に周りも何事かとこちらを見る。

「つまり、置いてきたってことだろっ?」
「えと、」
「まあ」

 和真の脳裏に嫌な光景が蘇った。

 先ほど、寮への坂道を登っていった2人組。
 中2の頃、自分にたちの悪いちょっかいをかけてきた上級生だ。

 名門校の底辺をウロウロしている問題児だが、立ち回りが上手いせいか、どうにかここに在校している3年生。

 ――鉢合わせたらヤバイな…。

「ちょっとゴメン」

 側に居たオーボエパートの後輩に声を掛ける。

「浅井先生に、遅れますって伝言頼む。詳しくは後から説明しますって」
「了解です!」

 悪いね、と声を掛けて和真は踵を返した。

「あ、おいっ和真っ」
「どこ行くんだよ!」

 引き留めるNKに和真が振り返った。

「ついてこいっ、ボンクラ2人組っ!」

 人気絶頂NKコンビをあろうことか『ボンクラ』呼ばわりした和真を周囲は唖然と見送った。

 そしてバタバタと後をついていくNKコンビ。

「栗山先輩も麻生先輩も、遅れます…って言わなきゃ、だな」
「…だな」



                   ☆ .。.:*・゜



「渉っ? どこだっ」

 この時期学校に残っている生徒は、今の時間はほぼ漏れなく部活に行っていて、寮内はシンと静まりかえっている。

 嫌な予感に、和真は背中に冷たい汗をかいていた。

「…これ…」

 2階へ向かう踊り場に、チェロの教則本が散らばっていた。

 ――やっぱりあいつらだ…。

 万一に備えて、要注意人物の部屋番号は覚えている。

 ――165…だったな。

 登ってきた階段をまた駆け下りる。

「おいっ、和真」

 NKコンビが追いついてきた。

「どうしたんだよっ」
「渉が危ないっ」
「「ええっ?」」
「来いっ、165だ!」

 そこからは和真も無我夢中で何が何だか良く思い出せない。
 とにかく、165号室の扉を壊れるほど叩いて蹴っ飛ばして開けさせた。

「な、なんだよお前らっ」
「やかましいっ。渉! 渉!!」

 なだれ込んだ3人が見たのは、ベッドに押さえ込まれている渉の姿だった。

 瞬間、直也と桂の全身が沸騰した。

「何やってんだっ!」
「渉を離せっ!」


 大乱闘…になるかと思われたが、決着は敢えなくついた。
 頭に血が上りすぎた直也と桂が、まったく手加減をしなかったために、3年生は敢えなく失神してしまったのだ。

「渉…っ」

 和真が駆け寄った。
 ボタンが引きちぎられているものの、どうやらなんとか間に合ったようだ。

 ただ、身体は無事でも、心は相当に傷ついたに違いなく、渉は涙もなく小さく震えるばかりで。



 大騒ぎは当然教師の知れるところとなった。

 駆けつけてきた祐介は直也と桂を庇ったのだが、なにしろ3年生が無抵抗のやられっぱなしだったため、2人の非とされた。

「栗山、麻生、職員会議で処分が決まるまで部屋で謹慎してろ」

 学年主任の言葉に渉が目を見張った。

 そしてその時、やったとばかりに3年生たちが訴え始めた。

『俺たち何にも抵抗してないのに、一方的に殴られました』と。

 その言葉に和真が猛然と反論しようとしたとき。

「しらばっくれるなっ」

 大声を出したのは、渉だった。

「僕を無理矢理連れ込んで乱暴しようとしたのはそっちじゃないかっ! 直也と桂は僕を助けようとしてくれただけだっ! 卑怯者!」

 一気に言い放って、荒い息をつき始める。

 卑怯者と言われた3年も、周囲の教師たちも、思わぬ渉の剣幕に度肝を抜かれたようなのだが…。

 ――やるじゃん、渉。かっこいい〜。

 内心でひとり拍手しているのは和真だ。

「本当か?」

 3年生に向かって、祐介が静かに聞いた。

 応えがない。

「もう一度訊く。本当のことか」

 静かだが怒気を孕んだ声に、2人は壊れたように頷き始めた。

 そして、白状した。
 嫌がる渉を無理矢理連れ込んだ…と。

「先生、どうやらこういう事のようですが」

 祐介が、学年主任に向き合った。

「…そういうことなら、栗山と麻生の行為は一応正当な防衛行動…と言うことだな」

 学年主任も訝しんではいたのだ。 このNKコンビに限って、意味もなく暴力を振るうはずがないだろうにと。
 まあ、この場合若干『過剰防衛』気味な気もしないではないが。

 かわりに3年生たちに謹慎が言い渡された。

 もしかしたら、大学の推薦が取り消されるかもしれない…と和真が祐介から聞いたのは、少し後のことだったが。




 この騒ぎの後では部活は無理だろうとの祐介の判断で、直也と桂、そして渉は寮の部屋へ戻っていた。 

 和真だけは部活へ戻っていったが、別れ際、NKコンビの耳元で『わかってるだろうね』と囁いた。

 それはもちろん、『金輪際目を離すな』という意味で、直也と桂は己のしでかしたミスに唇をかみしめた。



「2人とも、怪我してるじゃない」

 後先考えずに殴り倒したために、2人とも拳が腫れて、切れていた。

 412号室で、和真のベッドに腰をかけて、何も言わずにうなだれている直也と桂の足元に、渉が膝をついた。

「僕のために、こんな怪我しないで。楽器弾けなくなったら、どうするの」

 そう言って、ぽろぽろと涙を零す。

 その涙に、2人は慌てて顔を上げた。

「俺たちは渉の為なら怪我なんて…っ」
「そうさ、渉の方が大事なんだから!」

 大事なら、なぜ側を離れたのか。
 言った端から落ち込んでしまう。

「すぐに、駆けつけてくれたじゃない。あれで十分だから」

 とてつもなく怖かった。
 必死の抵抗を封じられたときには絶望した。

 けれど彼らは来てくれたのだ。
 結果オーライだったから、それでいいと渉は自分に言い聞かせる。

「…でもっ」

 最悪の事態だけは避けられたが、渉が受けた傷は計り知れない。
 それは全て、自分たちのミスだと当然2人は気づいている。

 あんな事になる前に、回避できたのに。
 あそこで妙な意地の張り合いさえしなければ。

 渉が2人にしがみついてきた。

「お願いだから、もっと自分を大事にして…」

 けれど渉は自分たちのために泣いてくれる。

 自分たちこそが、護るはずだったのに。



                   ☆ .。.:*・゜



 その夜、消灯点呼後に渉が喘息の発作を起こした。

 今日受けたストレスが原因に違いないと踏んだ和真は、すぐに斎藤を呼んだものの、今度は直也にも桂にも知らせなかった。

 襲われたことはもちろんだが、『自分のために直也と桂が怪我をした』という事実もまた、渉のストレスになっているであろう事は想像がついたから。

 ここであの2人を呼んでしまえば、渉はまた、『自分のせいで夜中に起こしてしまった』と自分を責めるに違いない。

 それに、あの2人には、まだ釘を刺しておかねばならないことがある。

 自分の気持ちをもてあまして見失っているような奴らに、大事な渉は任せておけないから。



                    ☆★☆



 翌日から2日間、渉は保健棟の静養室にいた。

 言葉にはしないが、明らかにひとりになる事を怖がっている様子の渉に、斎藤がずっとつきそい、部活が終われば祐介がついていた。

 ずっと昔、葵がいわれのない暴力を受けてその心を閉ざしていた過去を知る祐介は、大切な甥っ子を同じ目に遭わせようとした人間に、はらわたの煮えくりかえる思いでいた。

 教師になったとき、『どんな優等生にも、どんな問題児にも、同じように接する』と心に決めていたのだが、暴力で人をねじ伏せようとする輩はどうしても許せなかった。

 問題児たちの過去の行状について、それとなく生徒たちの証言を集め、それとなく今回の報告書に織り交ぜ、さりげなく上に提出した。

 ――卒業出来るだけありがたいと思え。

 最後には、院長と副院長が判断を下すはずだ。 


 ようやく安らいだ息で眠り始めた渉の頬をそっと撫で、祐介はひとつ嘆息する。

 止めに入るまで、まさに『キレた』状態だった直也と桂。

 2人が甥っ子を見る視線が、他のそれとは違うことに、当然気づいてはいた。

 まだ微熱かもしれないが、その熱が単なる思春期の麻疹と言い切れないことがあるのもわかっている。 自身がそうであったように。

 しかし、和真も側に居る。

 彼は大人顔負けの洞察力を持ち、人心掌握術にも長けている。
 絶対の信頼を置いている生徒のひとりだ。
 だからこそ、和真に渉の事を頼んだ。

 だから、今しばらくは自分が出る幕ではないと承知して、見守るしかない。

 だが、我が子同然…いや、それ以上に愛おしい渉のため、ありとあらゆる事を想定して立ち回らねばならないと、祐介は改めて心に決めた。



                   ☆ .。.:*・゜



 渉の発作を知らせなかった和真に、直也と桂は何も言わなかった。
 いや、言えなかった。

 そんな2人を前に置き、和真は仁王立ちで見下ろす。

「あのね、牽制しあうのは勝手だけど、それで渉を護り損ねるってんなら、今後一切手を引いてもらうよ」

 ど真ん中を突かれて、2人に返す言葉はない。
 ただうなだれるばかりで。

 その様子に和真がついにキレた。

「好きなんだろっ。ならジタバタしてないで全力で護れよっ。っとにカッコ悪いなっ、NKコンビ!」

 その叱責に、2人が目を瞠った。

 そして漸く思い出す。

 今自分たちがなすべきは何だったのかを。

 自分たちの想いが、どこにあるべきなのかを。



                    ☆ .。.:*・゜



 深夜、直也と桂はまんじりともせず、ベッドのなかで天井を見つめていた。


「なあ、起きてる?」
「ああ、起きてる」

 聞かずともわかっていた。 眠れるはずなどない。

「直也、本気か?」

 静かに問う。

「桂こそ」

 静かに応える。

「しらばっくれるのはなしだぞ」
「当然」

 そして、しばし言葉を閉じて、自分の心に向き合う。 

 何度問うても答は同じ。

『あの子が、ほしい』


「俺は渉が好きだ」
「僕は渉が好きだ」


 2人同時に出た言葉に、なんだか吹き出したくなった。

 自分の気持ちにウソはつけない。
 親友の気持ちを否定するつもりもない。

 ならば答えはひとつ。

 渉のことはこれからも2人で全力で守る。 心も、身体も。

 けれど、この想いは譲らない。

『お互いにフェアプレイで行こう』

 誰よりも心許した親友同士が真のライバルと認め合った瞬間、心の錘が外れ、誰よりも愛おしいあの儚げな笑顔が心を満たす。

 渉のためなら…。


 でも、この手をどれだけ伸ばしても、まだ、渉には届かない…。

END

第4幕〜熱風の季節』へ


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