幕間「この手を伸ばしても」

【1】


『第3幕〜星の季節』のNKサイドのお話。




 渉が肺炎で入院していた2週間。
 楽しくて仕方がなかった高校生活のはずなのに、急に色があせてしまった。

 どこにも渉の姿がないことが、こんなにも辛いだなんて。
 出会ってからまだ、1ヶ月と少しなのに。

 胸にポッカリ穴が開いた気分とは、こんな感じなんだな…と妙に納得してしまう。

 でるのはため息ばかり。
 おかげで和真から鬱陶しそうな顔を向けられている。

 そして、それは自分だけなのかと思ったら、どうやらお互い様のようで、直也と桂は一層ため息を深くする。

 何度も病院へ行こうと思ったのだが、何となくお互いに牽制し合ってしまい、身動きが取れなかった。

 何もかも『らしく』ない。こんなのは『自分たち』じゃない。

 じゃあ、どうすれば『自分らしさ』を取り戻せるのか。

 そうだ、渉が戻ってさえくれば、きっと元通りに違いない。

 はじめはそう思った。
 けれど。

 やっと渉が戻ってきて、どうしようもなく嬉しかったはずなのに、心の錘はいっそう重くなってきた。

 渉から目が離せない。 

 初めはその愛くるしい容姿に目を奪われた。

 そして、優しいけれど臆病で、自身の殻の内側でひっそりと息を潜めているような姿に心が引きずられ…。

 さらに、彼の奏でる音楽に魂を掴まれた。

 ――愛おしい。

 そう感じたのだが、さしのべる手はひとつではなかった。

 直也と桂。
 2人はいつも同時に手を延べる。

 それを横からスルッとさらっていくのはいつも和真。

 だが、和真が渉を見る目は、自分たちと少し違うような気がする。

 そうではない熱い瞳で見ているのは…。

 気がつけば渉の姿をジッと見つめる自分がいて、そして更に気がつけばもうひとり、渉の姿をジッと見つめているヤツがいる。

 ――桂…。
 ――直也…。

 何をするにもいつも一緒。
 2人でいれば満足だった3年間に、ターニングポイントが訪れていた。
 


                   ☆ .。.:*・゜



 パート別の練習が終わり、初めて管楽器全体と弦楽器全体に別れての練習が行われたその夜。

 消灯点呼も過ぎ、ベッドサイドの灯りしかない410号室で、ボソボソと話している2人がいた。

「今日さ、弦のセク練だったんだけどさ…」
「ああ、そりゃそうだろ、こっちは管のセク練だったんだから、そっちは弦のセク練だろ」

 混ぜっ返されてなんだか言葉が続かない。

「…だからなんだよ、桂」
「お前が混ぜっ返すからだろ」
「…そりゃ悪かったな」

 そして、しばし沈黙…。

「チェロパートさあ」

 チェロと言われて直也が反応する。

「…うん」
「生まれ変わってた」
「…マジ、で?」

 目を見張る直也に、やっと桂も視線を合わせた。

「ああ」
「やっぱ、渉…だよな」
「…当然」
「…そっか」

 そしてまた、しばしの沈黙…。

「でもな」
「うん」
「渉、言うんだよ。自分の力じゃなくて、みんなでがんばって出した結果だって」
「……」
「なんかさあ、こいつ、凄いなって…」


 凄いのはわかっていた。
 顧問も言っていたではないか。 渉より上手いヤツはここにはいないと。

 けれどそれは、あくまでも技量の話。

 儚げで頼りなげなその見かけ通り、渉は引っ込み思案で人見知りだ。
 それはこの2ヶ月足らずでよくわかっている。

 なのに、もしかしたら技量だけでなく、その内側も途方もなく深くて広いのではないだろうか。

 そっと触れないと壊れそうだけど…。



                   ☆ .。.:*・゜



「なあ、渉、ここどう思う?」

 チェロパートの再生を目の当たりにしたあの日以来、どうにも気ばかりが焦って、桂は渉に練習につきあってもらうことにした。

「どうって?」

 渉がちょこんと首を傾げる。

「時々3拍目が引きずられてるような気がするんだ」

 一度気になり出すと、そこばかりが耳につく。

「え、そうかなあ」

 けれど渉の反応はそうでもなくて。

「違う?」
「うん、大丈夫だと思うよ。それを気にするくらいなら、その前の小節の頭の方が管楽器とかに引っ張られやすいよ」

 思わぬ所を指摘され、一瞬何もかもを見失ったような錯覚に陥る。

「…そう、か」

 構えていた楽器をだらりとおろす。

「なあ、渉…」
「なあに?」

 様子がおかしいと気づいたのだろう、その声には気遣わしげな色が混じる。

 そして、こちらの様子をひっそりと伺う渉の瞳に、吸い寄せられて…。 

 ――この腕の中に、閉じ込めてしまったら、どうなるんだろう…。

 いつの間にか密着した身体の間から、ふわりと甘い香りが漂った。

 柔らかくて美味しそうな頬に、触れてみたい……。

「か、桂っ?」

 突然胸を押し返されて、桂は我に返った。

 ――え…今のは、夢…じゃなくて…?

「あああっ、ごめんっ、渉っ」

 申し開きのできないような状況に、慌てるしかない。

 けれど渉はいっそう気遣わしげな視線を送ってきた。

「えと、大丈夫? 疲れてるんじゃない?」

 ――そうかも知れない…。

「あ、うん、ちょっと休憩するよ。ありがとな」
「無理しないでね」
「…了解」

 渉は何度も振り返りながら、練習室を出て行った。




「渉、ちょっと」

 桂の所にいたのはわかっていた。
 だから、直也はここで待っていた。

「ごめん、ちょっと練習つきあってくれないか?」
「あ、うん、いいけど」

 気になっているところを何度か繰り返してみたけれど、渉は『問題無いと思うけど』というばかり。

 でも、気の焦りは収まらない。

「ちょっとこれ見て」

 譜面台においた楽譜を見てもらう。

「ここの部分、チェロと被るだろ?」
「あ、うん、そうだね」
「もうちょっと鋭い音にした方がいいのかなあなんて、思ってるんだけど」

 低音のチェロと、高音のフルート。
 同じパッセージを奏するとしたら、バランスに配慮がいる。

「え、ううん、むしろ包んでくれる方が良いと思う、けど」

 どちらがいいのか、出しあぐねていた答を、渉は明快に導いてくれた。

 焦りのひとつから解放され、直也はホッと息をつく。
 そして、その気分のままに、目の前の小さな身体を背後から抱きしめていた。

 そっと。壊さないように。

 けれど、抱きしめた瞬間、細い身体がこわばるのがわかった。

「…ごめん、渉。ちょっとだけこうしてて」

 なんだか泣きたい気分だった。
 こんな不安定な自分に会ったことがない。 今まで。

「あ…うん…」

 ほんの少し、力を抜いてくれたその時、ふわっと甘い香りが漂った。

 考えすぎて疲弊した脳の隅々まで浸食してくる痺れに、陶然としてしまう。

 ――ずっとこうしていたい…。

 けれど。

 また泣きたくなった気分を、深い息でなんとか追い払い、どうにか渉の身体を解放した。

「ごめんな、渉」

 どんな顔をして向き合って良いかわからなかったが、渉は笑顔を見せてくれた。

「ううん、いいよ。直也、疲れてるんだよ、きっと。がんばり過ぎなんじゃない?」

 この、しっちゃかめっちゃかな気分を思いやってくれる優しさに、ほんの少し微笑み返すことは出来たけれど、でもその笑みの中にはもしかしたら『自嘲』なんてのも含まれていたのかも知れない。

 そう思うとやっぱり情けなくて。

「そろそろ帰ろうか」
「うん」

 2人でゆっくり登る寮への坂道。

 ――手、繋ぎたいな…。

 そんな小さな望みが叶う日は、来るのだろうか。



                   ☆ .。.:*・゜



「…なあ」
「ん?」

 裏山の竹林が色とりどりに染まり始めた頃。

 ご丁寧にも生徒会から配られる短冊を前に、消灯点呼直前の410号室で固まる2人組がいた。

 そう。ここのところ頓に色気を増してきたと噂のNKコンビだ。

「なんか書いた?」
「や、まだなんにも。桂は?」
「俺も、全然」

 沈黙。

「なんだよ、願い事ないのか?」
「ないことはないけどさ。直也は?」
「僕だって、ないことはないさ」

 またしても、沈黙。

「書いたら、叶うのかな」
「俺、昔ゲームソフトが欲しいって書いたけど、叶わなかったぞ」

 さらに気まずく、沈黙。

「んじゃ、書いてもしょうがないじゃん」

 一瞬、沈黙。

「ま、世界征服って書いたって叶うわけないしな」
「でもゲームソフトくらい叶えてくれたっていいじゃんか」
「そんなの、親に言えよ」

 険悪に、沈黙。

 書きたいことはある。 今、どうしても叶って欲しい願いが。

 不意に直也が顔を上げた。

「なあ、一生にひとつだけ叶うとしたら、何願う?」
「ひとつだけ?」
「そう、たったひとつだけ…」
「一生に、ひとつ…」


『あの子が、欲しい』


「なあ、直也。何書いた」
「…ナイショ。桂は?」
「お前なあ、自分はナイショで、それはないだろ」
「じゃあ、聞きたい?」

 どんより、沈黙。

「聞きたくない」
「…だろ?」


 多分、聞かなくてもわかる。

 中1で出会って3年と少し。
 誰よりも近く、誰よりも長く、誰よりも支え合ってきたお互いには、隠し事などできないに違いないから。

 
『もしも同じものを望んでいたら』

 手に入れられるのはたったひとり。

 だから確実に、敗れるものがいる。
 ならばいっそ、2人とも敗れてしまった方がいいのだろうか。

 今出るはずのない答えに翻弄されて、2人はまた、深いため息をついた。


『生まれ変わったチェロパート』と、その結果をあくまでも『全員で作り上げた結果』とする渉に、管弦楽部員たちはみな、畏敬の念を寄せ始めていた。

 あの桐生家のサラブレッドなのだから、音楽に関するあれこれについては今さらだったが、けれど、その懐までがこんなに深かったとは…と。


 渉は誰に対しても、同じように接する。

 上級生にも下級生にも同じように緊張し、けれど何かを尋ねられたり、答を求められた時には、相手が誰でも同じように、丁寧に柔らかく真摯に応えている。

 だから、誰もが渉を好きになっていった。 意味は色々だが。

 そんな風に、『ひっそりと殻の内側で息を潜めていた』はずの渉が、いつしか少しずつその殻から顔を覗かせ、周囲の人間にはにかんだ笑顔を見せるようになり始めると、直也と桂の焦りは最高潮に達し始めていた。


 ――なんとかしないと…。

 でもどうすれば良いのか、何ひとつ答はでない。

 ため息ばかりが積もっていく…。

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