君の愛を奏でて3

番外編

『Mallet & Bow』

〜3〜




「えっ?!退部、ですかっ?」

 切れ長の美しい目を見開いて、理玖は絶句した。

「そうだ」
「…そんな…何てことに…」

 絞り出される声に、祐介は小さく息をつく。

「…その様子じゃ、何か知ってそうだな」

 何があったのかはこれから聞くとして、ともかく糸口が見つかったことに、祐介は幾ばくか安堵する。

 理玖は唇をかみしめて、小さく頷いた。

「…実は、今日にでも凪と話をしようと思って、探していたんです」

 まさか、退部を申し出た挙げ句に静養室送りになっているとは夢にも思わなかった。

 もっと早く動けば良かったと後悔したが、まさに後悔は先に立たず…で。

 そして、黙って先を促す祐介に、理玖はほんの少しの間、頭の中を整理して、口を開いた。

「原因は多分、里山先輩です」
「里山?」

 それは意外な人物名だった。
 良いにしても悪いにしても、およそ接点が遠そうだからだ。

「先輩も、先生には正直に話すと思います。僕も、先輩からは多分、全部聞いたと思います」

「ってことは、里山を呼び出すのが一番手っ取り早いってことだな」

 祐介の言葉に、理玖は『…はい、そうだと思います』と頷いた。

「先生…」
「なんだ?」
「…僕はどうしても凪と話がしたいです。会えませんか?」

 理玖が真っ直ぐ向けてくる瞳を受け、この様子では、どうやら理玖の力を借りた方が良さそうだと判断して、祐介は『わかった』と、保健棟の斎藤に面会許可の連絡を取った。



 音楽準備室から保健棟へ向かう途中、理玖は貴宏とすれ違った。

 音楽ホール内の内線で呼ばれたのだろう。
 理玖が今来た道へと向かおうとしている。

「理玖…」
「…先輩、覚悟を決めておいた方がいいですよ」

 言い捨てて、理玖は足早に保健棟へと向かった。 

 このハードルが越えられないようでは、この恋の先はきっとない。
 けれど、この人はやってのけるだろうと確信して、理玖は顧問に話したのだから、まさにここが正念場のはずで。




 退部を申し出たという凪の事を聞いて、貴宏は言葉を失った。

 その様子があまりにも『らしく』なく、祐介は『トラブル』といった類では無く、何かのすれ違いが生じたのだと直感した。

 ここのところ、珍しく調子を落としている様子も気にはなっていたから、この機会に洗いざらい吐かせてやるつもりで水を向ける。

「何があった?」

 穏やかな口調の裏に、ほんの少しの棘。

 普段の祐介は、生徒を相手にキツい物言いは絶対にしない。
 けれど、貴宏ならば自分の言葉を正しく受け取るだろうと信じて、返事を待つ。

 やはり、らしくなく、貴宏は口を開くまでに少しの時間を要した。
 そして、意を決した様子で顔を上げた。

「俺の、所為です」

 頷いて、祐介はまた、先を促す。

「話せるか?」
「はい」

 そして、ここに至った経緯を語った。

 入学してきた凪をずっと見てきた上での想いであることや、もう止められないほどに気持ちが育ってしまっていること。

 言葉の中には反省もあった。

 自分の想いを告げることにばかり気を取られて、きちんと手順を踏まなかったことが、今回の『すれ違い』の大きな原因だと。

 しかし、それにしても誤算だったのは、ああまで凪に拒絶されるとは思っていなかったことだ。

 もう一度、あの告白の日に戻って、やり直したい。
 後悔なんてものをしたのは、生まれて初めてだった。

 そうしてすべてを話した貴宏に、祐介は、今度は静かに尋ねる。

「お前は本気だと言うんだな?」
「もちろんです。俺は、自分の気持ちには絶対の自信があります」

 自分の気持ちだけで恋愛が成就すれば、こんなに楽なことはない。
 そうではないから、恋愛は甘くて楽しくて…そして残酷なのだ。

 けれど、今それを言っても始まらないと言うことも、大人になったからこそわかることで。

 とにかく、この先にこの想いが成就しようがしまいが、今を懸命に生きている子供たちを護るのは自分の役目だと、祐介は気持ちを引き締める。

「わかった。その気持ちに嘘偽りがないのなら、絶対に川北を退部させるな。お前の責任で必ず引き留めろ」

「はい」

 表情を固く引き締めて頷いた貴宏に、だが、祐介はさらに追い打ちを掛けた。

「もし、川北がやめるようなことになったら、お前も退部だ。男なら仕掛けた責任を取れ」

 むろん、どちらもやめさせる気はさらさらない。

 けれど、この局面を乗り切る責任が誰にあるのかは明白で、それを自覚して乗り越えれば、またひとつ、彼らは成長できると確信している。

 貴宏は無言のまま、しかし視線を逸らすことなく、もう一度はっきりと頷いた。

 凪だけは絶対になくしたくない。
 けれど、凪も自分も、出会った『ここ』に必ず留まる。

 少し噛んだ唇が、貴宏のもどかしさと決意の両方を現しているようにも見えたが、祐介は敢えてそれ以上の言葉を掛けることはしなかった。



                    ☆★☆



「凪…大丈夫?」
「理玖先輩…」

 ここのところ、眠れなくて食べられなくて、かなり身体は辛かったはずだけれど、それ以上に神経が摩耗していて、身体の不調を思いやることが後回しになっていたのだと斎藤に諭されて、凪は神妙にベッドの住人になっていた。

「ちゃんと斎藤先生の許可もらってきてるから、平気だよ」

 頭を撫でながら優しく言われると、なんだか急に目が熱くなってきたような気がした。

「辛かったね、可哀相に…」

 静かに言われて、目尻からポロッと雫が落ちる。
 それをそっと指先で拭いながら、理玖は柔らかく微笑んだ。

「里山先輩から、告白されたって?」

 その瞬間、凪は涙の膜が張った瞳を目一杯見開いた。

「先輩…どうして…」

「んとね、凪の様子も先輩の様子もおかしかったから、何かあったな…って思ってさ、先輩に問いただしたわけ。凪に何かしたんじゃないですか…って」

 そんな無茶な…と、凪は心の内で呟いた。

 どっちの様子もおかしかったからと言って、そこに接点を見いだせるはずがない。当事者である自分ですら、未だに接点がわからないのだから。


「そしたら、いきなり告白しちゃったなんて言うもんだから、もうびっくりを通り越して、呆れちゃってさ」

 クスクス笑う理玖に、凪はやはり、疑問しか浮かばない。

「…どうして…です、か?」
「ん?」

「先輩、怒らないんですか?」
「え? どういうこと?」

 凪の言葉に、今度は理玖が目を瞠った。

「だって、里山先輩は、理玖先輩の恋人だって……」

「…はあっ?! まさか凪、あの噂を真に受けてるわけっ?」

「えと…あの…」

 違うのだろうかと狼狽えてみる。

「あのね、凪、良く聞いて」

「あ、はい」

「確かに僕は、里山先輩とは親しい。中等部の部長も引き継いだし、それまでも、管楽器の様子を報告したりもしてたし。それに何よりさ、あの人ってば、うちの兄貴にそっくりで、危なっかしくて放っておけないんだ。で、つい余計な世話焼いちゃうもんだから、傍目にはそういう風にみえてしまうのかも知れないけれど」

 あの『いかなる時も冷静沈着なる有言実行の男』と呼ばれている人を捕まえて、『危なっかしい』などと言えるのは、多分聖陵学院内でも理玖ただひとりだろうと、『やっぱり理玖先輩って凄い』…なんて感想を抱いた凪に、理玖はずいっと顔を近づけてキッパリ言い切った。

「でもね、誓って言うよ。僕と先輩の間には何もないから」

 目を捉えて、これでもかと言うほど力を込めて言われればもう、納得するしかない。

「それに、凪には白状しちゃうけど、僕には好きな人がいるから」

「…理玖先輩…」

「出会った時からずっと想い続けてる大切な人がいるんだ。だから、里山先輩のことは、そう言う意味では完全に眼中外……ってか、むしろ迷惑」

 珍しくむすっとっした顔を作る理玖が面白くて、凪はつい笑ってしまった。

「やった。凪、笑った」

 理玖もまた、凪の頭を優しく抱えて笑う。

「あの…」
「ん?」
「心配かけてごめんなさい…」

 やっと涙が消えた瞳で見上げれば、理玖はまた、優しく頭を撫でてくれる。

「ふふっ、それはね、謝る事じゃないんだよ。僕は凪が大事だからね、何にもなくてもいつも心配することにしてるから」

「え〜、僕は心配かけたくないですよ〜」

「ダメダメ、これはもう僕の趣味みたいなもんだから」

「理玖先輩、ムチャクチャ〜」

 言葉を交わすにつれ、だんだんといつもの自分を取り戻しつつあることを、凪は頭のどこかで感じ始めていて、理玖ももちろんそのことに気づいていて。

「じゃあ、ちょっと元気が出たところで、大切なこと、話しておこうか」

 笑顔のまま言われたけれど、凪の表情は少し、固くなる。

「先生に、退部したいって言ったって?」

 やっぱり理玖の耳にも入ってしまっているのだと、凪は目を伏せる。

 理玖は現在中等部の部長なのだから、話が行って当然なのは、よくわかっているけれど。


「それって、里山先輩の所為だろ?」

 理玖は柔らかい表情のままで、凪はどう答えて良いのかわからない。

 確かに、所為と言えばそうなるけれど、全部を人の所為にするのは違うような気がしてきた。

 結局は、自分に自信がないことを、棚に上げたような気がして。

 けれど、きっかけはと言えば、やっぱり『告白』だから。

 だから、このままにはしておけないと、凪は疑問を投げてみることにした。

「さっき理玖先輩は、僕と里山先輩の様子がおかしかったから…って言ったじゃないですか」

「うん、そうだね」

「なんで僕と里山先輩の間が繋がるのか、僕にもわからないのに…」

 どうして理玖にはわかったのか。それが知りたかった。

「ああ、それね。凪の疑問はもっともだけど、里山先輩ってば、高等部へ行ってからもずっと、『凪はどうしてる?頑張ってるか?元気にしてるか?』…って、そりゃもうしょっちゅう僕に聞いてくるんだよ。そしたらもう、『ああ、これは何かあるな』って思うじゃない?普通は」

 だろ?…と、首を傾げられても、それならそれで、また別の疑問がわいてくる。

「でも僕は、そう言われた今でも、まだわかりません。里山先輩がなんで僕なんかを気にするのか…」

 そう、凪の視界には、貴宏はまったく入っていなかったのだから。 

「それに僕は、里山先輩のこと、何にも知りません」

 自分が知っているのは、カリスマ打楽器奏者で、2年後にはきっと、やり手の管弦楽部長になるだろうとみんなが噂していることくらい…だ。

 けれどそんなことは、この校内では誰でも知っている。


 凪の言葉に理玖は静かに頷いた。

「そうだね。凪の気持ちは良くわかるよ。わからないことだらけで不安だよね」

 まして相手は、尋常では無いオーラを放つ、ある意味暑苦しいオトコで。

 それに、見かけだけを言うのなら、自分の方が凪には似合ってる…なんて、理玖はこっそりと思っている。

 けれど、あの暑苦しいオトコは、凪の本質を見抜いて、そして惚れたのだ。
 見る目はあるに違いない。

 凪には『大変なヤツにターゲットロックオンされちゃったね…』と、若干同情を禁じ得ないが。


「でもね、これだけは信じてあげて欲しいんだ。里山先輩は、冗談でも嫌がらせでもなく、真剣に凪を好きになったってこと」

 凪の表情は困惑の色を濃くしている。

「里山先輩がどうして凪のことを好きになったのかってこと、僕は知ってるけど、でもそれは里山先輩の口からちゃんと聞いた方が良いと思うんだ。だから一度、里山先輩と話をしてあげてくれないかな?」

 ね?…と、理玖にお願いされてしまっては、凪が嫌と言えるはずもない。

「…わかりました…」

 とは言ったものの、自分が話すことは多分、何もない。

 けれど、真意を聞いてみたいとは思った。
 このままでは、自分はどこへも行けないから。



                     ☆★☆



 貴宏は理玖に懇々と説教をくらった。
 きちんと向き合い、筋道立てて自分の気持ちをちゃんと伝えて…と。

 ついでに、これからも自分は凪の味方で監視を続けていくから、せいぜい気を引き締めて…とも。

 理玖の言う一つ一つにやたらと説得力があって、ぐうの音もでなかったが、『里山先輩とは違う意味で』と注釈をつけながらも『僕は凪が大好きだから』と言い切る理玖と、その理玖にガッツリ懐いている凪の関係が嫉ましいのも事実だ。



 その後すぐ、2人きりで会うお膳立ても理玖がしてくれて、一番人目につかない練習室で、貴宏は凪に向き合った。

 少しの距離を取って。



「…退部したい…って聞いた」
「……」

 凪はまだ、退部の意志を撤回していなかった。

 顧問からは『とりあえず不受理』と言われ、じっくり考えを整理して、また話合おうと言われている。

 正直なところ、弾くことが好きなのは確かで、もしやめてしまったら、自分はこの学校にいる必要もなくなるのではないかと思うほど、未練はある。

 けれど、不安もまだ何ひとつ解決できていない。

 だから、問いかけられても何も答えることが出来ず、ただ、『どうしよう…』と心の中で狼狽えるばかりの凪に、貴宏が爆弾を投下した。

「凪がやめたら、俺もやめる」

 一瞬何を言われたのかわからなくて、辺りが真っ白になった。


『ナギガヤメタラ、オレモヤメル』


 今の何語だっけ…なんてマヌケなことを本気で考えてしまうほど、あまりにも予想外な言葉に、思考回路が麻痺したままで戻って来ない。

 けれど、貴宏は続けた。

「凪がいなくなったら、俺は何にもする気が起きなくなる。部に残る意味もない」

「…せんぱい…」

 漸く言葉を発した凪に、貴宏は少し笑った。

「嬉しいな。声を聞いたら、なんだかそれだけでここが温かくなる」

 そう言って、自分の胸を押さえる貴宏を、凪はまるで幽霊でも見るような視線で見つめている。

 この人はいったい何を言ってるのか。
 部活をやめると言ってみたり、自分の声に嬉しいなんて言ったり。

『スーパーマンみたいなもの』だと思っていた雲上人の、凪からすれば『聞き分けがない』としか思えない駄々っ子のような言い分を、もう一度頭の中で反芻した時、凪の中で何かがプツンと音を立てて切れた。


「先輩っ、何むちゃくちゃなこと言ってるんですかっ」
「凪…」

 突然の剣幕に、貴宏は目を丸くする。

「僕の代わりなんていくらでもいるけど、先輩の代わりなんていないんですよっ。管弦楽部のみんながどれだけ先輩が好きで、頼りにして、期待してるか、わかってないんですかっ。先輩がいなくなったら、みんなが泣くってわかんないんですかっ」

 一息に言って荒い息をつくと、凪はボロボロと大粒の涙を零し始めた。

「…凪…」

 呟くように『ごめん』と続け、貴宏は堪らずに手を伸ばし、凪の身体を抱き込んだ。

 腕の中にすっぽりと収まってしまう身体は、少し抵抗を見せたが、諦めたのか、すぐ大人しくなった。

 涙はなかなか止まらないけれど。


「凪がそんな風に言ってくれるのは、嬉しいよ。でもな、打楽器奏者の代わりなんて、いくらでもいるんだよ。チェロ弾きの代わりもな。
 でも、俺にとって、凪の代わりはひとりもいない。ここにいる、川北凪だけなんだ」


 今まで聞いてきた、自信に満ちたはっきりとした物言いとはまるで違う、どこかに弱さを滲ませた声が、抱きしめられた胸から耳に直接響いて、それがまるで心の声のようにも聞こえて、凪は胸を詰まらせた。


「そりゃ、最初は確かに『危なっかしいチビがいるなあ』と思って気をつけてたのがきっかけだけど、ずっと見てるうちに、凪が誰にでも優しくて、誰も見てなくても一生懸命だってことに気づいた。
 俺はそんな凪から目が離せなくなって、凪を見てると気持ちが落ち着くようになった。
 でも、高等部へ上がって凪に会えなくなった時にはっきりわわかった。俺は凪が好きなんだって」


 抱きしめられているからなのか、気持ちが染み込んできたからなのか、冷えていた身体が温かくなってきて、凪は少し力を抜いた。

 すると、また少し、強く抱きしめられて。


「ごめんな。凪には唐突だったと思うけど、俺的には結構長くて、思い詰めた結果なんだ。でも、それをちゃんと凪に説明しないとダメだろって、理玖に怒られた」

 左手で身体を、右手で頭を抱えられて、身動きできないけれど、いつの間にか逃げたいとは思わなくなっていた。

 けれど、今ここで『はい、そうですか』なんて言えるわけもない。

 その思いが伝わったわけでもないだろうに、貴宏は言った。

「俺は凪が好きだけれど、今すぐ同じ想いを返してくれなんて言わないから安心して」


 ――え、そんなの、あり?

 想われたら想い返さないといけないのだと思っていた。
 だから、そんな無茶なことは自分には出来そうもなくて、そうなったらもう、逃げるしかなくて。


「でもな、俺を凪の『特別』にしてくれないか?」

「僕の、『特別』…?」

「そう。凪の『特別』にしてくれたら嬉しい。そこからゆっくりと、俺を知ってくれたらいいなと思ってる」

 それならば、今すぐ逃げることばかりを考えなくてもいいのだろうかと、凪は思いを巡らせる。

「ただ、これだけは覚えておいて欲しい。俺は、打楽器奏者でも先輩でもなんでもなく、ただの里山貴宏として、凪に必要とされたいって思ってることを…」

 少し身じろいで、凪はそっと貴宏を見上げた。
 出会うのは、今まで見たことがないほど、優しい眼差し。

「先輩…」
「ん?」
「…僕、やっぱりよくわからないです」
「そうか…」

 少し残念そうな、でも、悲しそうではない表情に、胸がひとつ、トクンと小さく音を立てた。

「僕はずっと、先輩を凄い人だと思って遠くから見てました」

 人望があって、実力があって、見かけも良くて。

 こんなに何でも持っている人が、自分なんかを必要とするなんて、やっぱりわからない。
 でも、わからないままではいたくない…気がする。


「…僕が知らない先輩を…教えてくれますか?」
「…凪」

 ギュッと抱きしめられるのはもしかしたら好きかも知れない。
 ちょっと苦しいけれど、温かいから。

「ありがとう、嬉しいよ…」

 その言葉を意識のどこか遠くで聞きながら、もしかしたら、これからもっと不安は大きくなるのかも知れないと、凪は思う。

 本当は、やっぱり逃げてしまいたいと思っている自分も確かにいて、でも、どうにかしなくてはいけないのも事実で。


 ――これからどうなっちゃうんだろう…。

 やっぱり現実味は薄くて、眠って目覚めたら夢だった…ってことにならないかな…と、後ろ向き過ぎる自分に、ちょっと悲しくなった。



                    ☆★☆



 有言実行の男は、『週に2回は必ず、それ以外でも出来るだけ会おうな』…と、凪と小指を結んで半ば強引に約束を取り付け、当然のことながら『退部宣言』も撤回させて、その足で祐介と理玖に報告に向かった。

 それは、祐介にしても理玖にしても、『今の時点ではそれ以外ないだろうな』という結果に当然のことながら行き着いただけで、『何にしても、すべてはこれからだな』という感想で完全に一致していた。

 理玖は『これからの方が大変そう…』と、凪の心を案じ、祐介は『今度痴話げんかで退部騒ぎを起こしたら、卒業まで打楽器庫の掃除をひとりでやれよ』と言い渡した。笑いながら。



 翌朝。
 2年3組の朝礼が終わったところで、祐介は凪に声を掛けた。

「昨日、里山から報告があったよ。良かったな」
「えっ、あの、先生…」

『何を』報告されたのだろうかと凪は大慌てだ。

「やめないんだろう? チェロ」

 若干人の悪い笑顔で言う祐介に、凪は、『あ、そっちか』と、胸をなで下ろす。

『告白した』だの『された』だの、そんな話が担任に知れたら一大事だから。

 ところが。

「まあ、今回の事はこれも経験だと思って、これからも、チェロは精一杯、里山の相手は適当に、頑張れ」


 ――…へ?

 一瞬で燃え上がって燃え尽きて灰になりそうになった。
 いや、燃え尽きている場合ではない。

「あのっ、先生っ」

「ん?」

「退部とか言いだしたのは、すみませんでした。これからまた、頑張ります。でも、さ、里山先輩の話は、別に、つ…つき合うとか、そう言う話じゃないですからっ」

「なんだ、そうなのか?」

「そうですっ」

 しれっと返す祐介に必死で主張する凪の姿は可愛らしくて、可笑しい。


 ――この調子じゃ、まだまだこの先、難問山積だな。

 自身がジタバタともがきながら恋をしていた頃を懐かしく思い出して、祐介は子供たちに気づかれないようにこっそりと笑った。




 食欲不振と寝不足の所為で体力を落としていた凪は、斎藤の助言で2日間部活を休んだ後、復帰した。

 仲間たちは、体調が悪かったのに気づいてやれなくてゴメンと、口々に言ってくれたし、パートリーダーは、『困ったことがあったら、何でもいいからいつでも相談して来いよ?』と、何度も言ってくれて、やっぱり『ここ』を離れるのは無理だなあと、凪は実感した。

 それに気づいただけでも、良しとするしかない。今のところは。

 この先のことはもう、なるようにしかならないと、やっぱりまだまだ後ろ向きのままだったが。




 それから2人は、端から見ていてもどかしいほど、ゆっくりと距離を縮めて行った。

 貴宏の忍耐力と理玖の的確な助言とに支えられて、凪も少しずつ心を開き始めて、1年ほどの後――凪が中等部副部長として忙しくしていた頃――やっと初めてのキスをして、その頃には凪も、『好き』という言葉の重さをはっきりと自覚していた。

 2年の年の差が埋まるほど打ち解けられてはいないけれど、会えばいつも笑顔で話せるようになり、ぎこちないながらも、抱きしめられればそれなりに腕の中に収まることができるようになった。

 何よりも、貴宏が話してくれたり教えてくれたりする色々な事――打楽器のこと、音楽のこと、友人や家族のこと等々――は、凪を楽しませ、凪はそんな風に話を聞きながら過ごす時間が大好きになった。


 けれど、自分の熱量が増すにつれて、違う不安が心を占めるようになってきた。

 もしかしたら、この幸せは『期間限定』なのではないかと。

 そもそもあんな凄い人が自分に心をむけるなんて奇跡のような話で、それは、この閉鎖された空間だからこそ、起こったことだと思えてならない。

 もしそうだとしたら、慣れてしまってはいけない。
 甘えてしまってはいけない。

 踏みとどまっていないと、辛くなるのは自分だと。

 それを何度も自分に言い聞かせた。



 そして凪が高等部へ進学し、また、2人が同じ場所で過ごせる時がやってきた。

 それは、2人が『ここ』で一緒に過ごせる最後の1年。



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