君の愛を奏でて3
番外編
『Mallet & Bow』
〜4〜
進学し、初めてメインメンバー入りした凪は、渉とも親しくなり、充実した高校生活をスタートさせていた。 だが貴宏は、凪が顧問から『正真正銘』の同室者に選ばれたことに、相当気を揉んだ。 どんな奴なのか誰も知らない『正真正銘』と2人きりの部屋だなんて、考えただけで恐ろしい。 凪に何かあったらどうするんだ、俺だってまだ何にもしてないのに!…と愚痴ったら、理玖が目を丸くした。 「えっ?!まだ、なんですか?!」 「…まあな」 あまりに情けなくて、思わず目を逸らしてしまった。 だが、それがまた理玖を盛り上げてしまったようだ。 「うわ−、もしかして僕、初めて先輩のこと尊敬したかもー」 「なんだよ、それ」 メチャクチャな言われようだが、どの道理玖には頭が上がらないのだから、抵抗するだけ無駄というもので。 「意外と我慢強かったんですね。まあ、凪だから…ってとこでしょうけど」 あの凪を相手にケダモノになれるとしたら、それはもう、単なるヘンタイだろう。 凪は、大事であればあるほど手が出しにくいタイプだと思えるから。 「ふん。俺はこれでもちゃんと学習してるんだ。最初に大失敗してるからな」 「あらま。里山貴宏ともあろう人がトラウマになったんですか?」 トラウマなどとは認めたくないが、確かにもう二度と失敗をしたくないのは事実で、それ故に手をこまねいてしまうという悪循環だ。 「ま、同室者の件については浅井先生を信じるべきでしょ。先生が凪の負担になるような相手を一緒にさせるわけないじゃないですか」 「…そりゃそうだけど…。でもな、恋する男は不安になるんだっ。そりゃあ理玖は『絶賛片想い中』だから関係ない話だろうけどなっ」 悔しくてついつい余計な事言ってしまったら、案の定、理玖は切れ長の美しい目をすうっと細めて冷たく笑った。 「…ふふっ。先輩、それでリベンジしたつもりですか?」 そして、体つきに見合ったほっそりした長い指で貴宏のフェイスラインを羽のようになぞり、顎をクッと持ち上げると、今度はこれでもかというくらい華やかに微笑んだ。 「そうだなー、実る可能性のない恋よりも、凪に乗り換えてラブラブハッピーになっちゃおうかなー」 「あっ、おいっ、何言ってんだよっ、凪には手を出すなって!」 「凪はそもそも僕に懐いてたんだしー」 「理玖っ!」 貴宏の焦りっぷりを見て、人の恋路を茶化した罰をたっぷり与えられたことに、理玖は満足そうに笑った。 そして、理玖が言うとおり、貴宏の不安は杞憂に終わった。幸いなことに。 凪の同室――七生は明るく闊達な質で、凪ともあっという間に馴染んで、しかもヨコシマな思いもなさそうだとなると、2人が友情を育んでいくのを恋人として見守ることはやぶさかでなく、場合によっては、理玖も卒業してしまった後、凪の最後の1年を託すことになるかも知れないとまで思っている。 ともかく、自分たちが同じ場所で同じ時を過ごせるのはあと1年しかない。 そう、貴宏は凪を見守りつつ、相変わらずゆっくりと想いを育んでいる…つもりだが、いい加減我慢も限界に近づいていた。 理玖にも愚痴った通り、未だ凪とはキス――しかもふれあう程度――止まりで、悶々具合は半端でない。 やっと同じ寮にはなったけど、お互いに同室者は管弦楽部員だから、合宿期間に入ってもひとり部屋となることはない。 しかも凪は都内に実家があるから、休暇に入るとすぐに帰省してしまう。 自分の実家も都内なら、なんだかんだと理由を付けて引っ張り込むこともできただろうけれど、残念ながら貴宏の実家は名古屋だ。 さらにもうひとつ、自分たちの将来についての懸念事項がある。 貴宏は早くから音大受験を決めていて、学力も実力もまったく問題無いからこれといった準備をすることもなく、とにかく部活に精を出している。 そして、出来れば凪にも音大を志して欲しいと願い、それとなくアプローチを続けているが、凪の熱量は上がって来ない。 かといって、これと言って行きたい大学がある様子でもなく、それならなんとか…と思うのだが、まだ高校生になったばかりの凪に、受験の話をせっつくのも可哀相で。 確かに凪の心はもう、自分に向いていると信じているから、焦りたくはないのだが、はやる気持ちも抑え切れずにいて、貴宏のため息はここのところ増えている。 ☆★☆ 「先生って、どうやって逢い引きしてたんですか?」 「あ? 何言ってんだ」 祐介の居城――音楽準備室で楽譜や重要書類の整理を手伝いながら貴宏は、世間話のついでのように言いだした。 「だって、先生も高等部の頃、校内に恋人いたって聞きましたよ?」 「奈月葵だろ?」 未だに『伝説のカップル』と呼ばれているのは承知しているし、だからといって敢えて訂正もしていない。 事実ではないし、どうせネタにして楽しんでいるだけだろうから、好きに噂させておけば良いことで。 だが、貴宏はとんでもないことを言った。 「いえ、フルートはフルートでも、先生の3年後輩ってことで」 「えっ、何だよそれっ」 今度はいきなり事実を突かれて、『顧問の先生』ともあろう者がちょっと狼狽えてしまったりなんかして。 「今、F大付属で英語教師してるコンバスの本山先輩、実は父方の遠縁なんですよ」 「…嘘だろ〜」 ネタ元を知った瞬間の脱力感ときたらもう、ロクなもんじゃない。 「だから俺、中学入った時に聞いたんですよ。『俺が目ぇつけてた可愛い後輩、浅井に取られたんだ〜!』って」 「もう〜、あの人は何言ってんだよ〜」 『浅井に藤原を取られた』と、あっちこっちでネタにしているのは知ってはいたが、こんな所にまで漏れているとは夢にも思わなかった。 だいたい目を付けてたくらいでエラそうに言わないで欲しい。 そもそも『お膝抱っこ用のペット』として愛玩していたくせに、美人に育ち始めた頃になってから手を出そうなんて盗人猛々しいにもほどがある…と、言いたいところだが、相手は『腐っても』先輩だから、一応黙ってきたのに。 「あ、ご心配なく。オフレコってことは重々承知してますんで」 ニッと笑って見せる『食えない生徒』に、『顧問の先生』もお手上げだ。 「それ、マジで頼むぞ。もしかしたら、来年から合宿講師に呼べるかも知れないんだ。妙な噂が横行してたら、来てくれなくなるだろ」 祐介の言葉に、貴宏は目を瞠って口笛を鳴らした。 「先生、それマジですか? 『あの』藤原彰久さんが講師って、凄いじゃないですか」 「ああ、話が出てからスケジュール調整に2年もかかるんだ。身内の事務所に所属していてもこれだからな。しかもまだ本決まりじゃないんで、くれぐれもオフレコな」 聖陵学院からの要望にはいつも最優先で調整に入ってくれる音楽事務所と、さらに本人の強い希望をもってしても調整が困難なほど、彰久は忙しい。 それでもオーバーワークにならずに済んでいるのはやはり、赤坂良昭をトップに戴く事務所の力量の高さではあるのだが。 「了解です。藤原先輩の合宿講師が実現することを願って、すべてオフレコってことで」 様になる仕草で敬礼してそう言うと、貴宏の話は振り出しに戻った。 「で、先生」 「あ?」 「だから、その年下の恋人とどこで逢い引きしてたのか…って話、ちゃんと教えて下さいよ」 忘れてなかったのかと、また脱力する祐介だが、里山貴宏という生徒が食いついたら納得いくまで離れない質だというのはもう、6年目に入ったつき合いで重々承知している。 だから、仕方ないなと、もう少し付き合うことにして…。 「そりゃもう、長期休暇を狙うしかないだろ?」 「それが、その手がなかなか難しいんですよ。何しろ寮を出ると遠距離になっちゃうんで」 確かに実家が遠いというのは、未成年にとっては大きなハードルになり得るだろう。 その点、自分たちは実家がそう遠くはなかった。 だから、正月早々会えたりもして……なんて、うっかり懐かしい思い出に浸りそうになったのを慌てて切り替えて、祐介はまた『仕方ないな』と取り繕う。 「そうなったらもう、裏山という広大なパラダイスを有効に使えってことだ」 「…やっぱそれですよねえ…」 「ってな、教師の立場でアドバイス出来るのはこれが限界だ。あとは自分で考えろ」 それも、かつて生徒であったればこそ。 「え〜、お薦めスポットとかないんですか?」 「あのな、お薦めスポットってのはみんな知ってて混み合うんだ。秘境を切り拓け、秘境を。ただし、立ち入り禁止の所に入るんじゃないぞ」 教師が生徒に向かってする話じゃないだろうと、自分で突っ込みをいれつつも、いや、この生徒だから仕方ないか…と言う気もして。 「…秘境…」 どうやら貴宏は頭の中で真剣に『裏山秘境マップ』を展開しているようだ。 万事に年齢らしからぬ余裕を見せつける貴宏の、予想外の余裕の無さに思わず笑いが漏れる。 「それにしても、 まさか 『楽器が恋人』のお前がこんなにリアルの色恋に熱くなるタイプだとは思わなかったよ」 そう、管弦楽部員の誰もが今でも同じことを思っているだろう。いかなる時にも冷静沈着と言われた打楽器奏者は、『楽器が恋人』だと。 「俺も、打楽器は無慈悲に時を刻んでればいいんだって考え、改めました」 正確無比なリズムの中で、感情の揺らぎを表現するのは、恐らく他のどの楽器よりも難しい。 「それがわかっただけでも、恋をして正解だったってことだ。ま、せいぜい悶々と悩むことだな。悩んで全部、糧にしろ」 悟がすでに目を付けている才能を、卒業までにまだまだ高みに引き上げて渡すことが出来れば…と、祐介は思っている。 そして、叶うことなら幸せになって欲しい。自分と恋人のように。 ☆★☆ 夏合宿の初日。事件が起こった。 高3の札付きに、渉が襲われたのだ。 表沙汰にはされなかったが、慌てて寮に取って返した和真の動きや、桂と直也が手に怪我をしたこと、渉が体調不良で2日間休んだことから、管弦楽部員には早い段階で知れ渡っていた。 全部員が激怒したのは当然で、特に凪や七生たち同級生の怒りは深く、このままでは報復に出かねない状況になったところで、貴宏が静かに口を開いた。 『俺に任せろ』…と。 その口調は静かだったが、激しい怒りを内包していて、その言葉が持つ説得力に全員が従った。 そして、2人きりになったとき、貴宏は改めて凪に言い含めた。 「いいか、凪。渉の身辺は安藤に任せておけば良い。栗山と麻生もついてるからな」 「でも、僕は…」 怒りが納まらずに拳を握る凪をそっと抱きしめて、貴宏は諭すように言う。 「気持ちはわかるが、凪は凪にしか出来ない方法で渉を護れ」 「僕にしか出来ないこと?」 「そうだ。幸い合宿中で人数は減ってはいたけれど、運動部も大勢いたから、『誰か謹慎食らったらしい』って話はもう出回り始めてる。 だから凪は、つまらん噂が立たないように、芽を摘んで回れ。 最初を叩いておけば、夏休み中にみんな忘れるからな。 ただでさえ渉は傷ついているんだ。この上に噂でまた…なんてことは絶対にさせない」 その言葉に凪も納得して、貴宏の目を見て、しっかりと頷いた。 「頼むぞ、凪」 「はい」 返事に少し微笑んで、しかしまた、貴宏は表情を引き締めた。 「そもそも俺たち高3も、あいつら『学年ワースト2』には辟易してたんだ。息をするように嘘をつくヤツらで、学年問わず、それこそ数え切れないくらいの生徒が嫌な目にあってる。 それでも、相手にならなきゃいいって、みんな我慢して大人の対応してきてやったんだ。 なのに、可愛い後輩に手を出して怪我までさせやがって…」 相変わらず口調は静かだが、響きはこれ以上なく冷徹で、凪にもその怒りの深さが伝わった。 「死ぬほど後悔させてやる」 恐ろしい言葉のはずなのに、凪にはそれが深い愛情に聞こえた。 それと同時に、自分とは比べものにならないほど強くて、みんなが絶対の信頼を寄せるこの人が自分を好きだなんて、やっぱり変だと思ってしまう。 消せない不安が、静かに体中に沁みていくような気がして、凪は小さく震えた。 それから数日の後、夏のコンサート本番を翌日に控えて慌ただしくなっている音楽ホールのステージ裏で、凪は理玖から『その後』の顛末を聞いていた。 「部長と副部長で連れ立って、ヤツらが謹慎明けで帰省するところをとっ捕まえて裏山に引きずりこんだんだ。 で、卒業まで大人しくしておいた方が身のためだぞって脅しつけたんだよ。 6学年の管弦楽部員全員を敵に回したんだから、どこにいても必ず監視されてると思えって。 でさ、今度何かやらかした時には、それなりの覚悟をしておけって。 今でもみんなギリギリの所で我慢してやってるんだから、次はちょっとした事でも簡単にキレるぞ…なんてさ」 有言実行だけれど、その分普段は根回しも万全で、真っ向勝負は『ここ一番』にしか繰り出さない人間が放った、『正面からの一太刀』は、さぞ効いただろう。 かつて凪相手に放った根回し無しの『ここ一番』は大失敗だったが。 「あの人も凄むと迫力あるからねえ。『お前らの口を塞ぐ事なんて、アリンコ潰すより造作もねぇんだからな』って言ったときの、相手の怯えた顔ったら」 それをクスクスと笑いながら報告できる理玖も、一筋縄ではいかない人物像が見え見えだが。 『栗山と麻生の気持ちは痛いほどわかる』 貴宏は理玖にそう言った。 もし凪が同じような目に遭ったら、自分は相手の息の根まで止めてしまうかも知れないと、苦悶に満ちた表情で。 そしてもちろん、理玖にも痛いほどわかっている。 桂の気持ちも直也の気持ちも、そして貴宏の気持ちも。 理玖も、人知れず護ってきたのだから。愛しい人を、ずっと。 そして、理玖の話を真剣に聞いていた凪が、ちょこんと首を傾げた。 「…って、理玖先輩もしかして…」 まるで『見てきた』ように報告してくれる理玖に、疑問がわいた。 まさか『現場』に居たのでは…と。 「あれ? ばれた?」 ニコッと笑って、理玖は凪の頭を撫でる。 「ま、後学のためってのと、相手がこれでもかってくらい悪評高い札付きのワルだからね、何が起こるかわかんないし、僕らも部長と副部長を護らなきゃ…って気持ちがあってね、高2の有志で自衛団を作って背後からこっそりついてったわけ。 あ、有志って言っても結局全員だったから、見つからないようにするの大変だったけど」 なんとも頼もしい高2軍団だが、それを束ねて率いているのは誰あろう、理玖で、見かけとのギャップの激しさは和真にも勝るとも劣らない。 「でもさ、結局高3の先輩方もみんな隠れて見張っててさ〜、もう裏山は管弦楽部員だらけだったけど」 あはは…と笑った理玖だったが、ふと真顔になった。 「里山先輩はね、僕たちに『管弦楽部員を守るのは俺の役目だ』って言ったんだ。 僕ら高2もみんな、あんな風に後輩たちを守れる最上級生になろうな…って、約束しあったよ」 そう言う理玖も頼もしく、きっとその約束通りに頼もしい最上級生になってくれるに違いない。 そしてその姿を見て、自分たちもまた後に続き、次の学年へと繋いで行くんだな…と、凪は『ここ』にいることの出来る幸せを噛み締める。 「あ、そろそろスタンバイだ。凪、がんばろうね」 「はいっ」 間もなく明日のコンサートの総練習が始まる。 全員がそれぞれの場所で気持ちを集中している中、貴宏は自分の事よりも周囲の状況に気を配り、適切な指示出しを続けている。 ――僕はきっと、里山先輩に出会えて幸せだったんだよな。 あんな凄い人と、ほんのひとときでも親密な時間を共有する事ができた。 いつの間にか育ってしまった恋心は、気がついた時にはもう、身体から溢れそうになっていて、今はもう、すっかり持て余してしまっている。 ――…諦めたくない…かも。 でも、先は何にも見えない。 あと1年も残っていないのに。 貴宏が言うように、もし同じ大学へ追いかけて行けるのなら、望みは繋がるかも知れない。 けれどそれは無理な話だし、そもそも自分が大学に行くまでにはその後2年もある。 その間、広い世界へ出て行く彼にはたくさんの出会いがあるに違いない。 ――忘れられちゃうくらいなら、先に諦めた方が楽かなぁ…。 またしても後ろ向きな気分に襲われた時、桂が立ち上がったのを合図に和真がチューニングの『A』を鳴らし、凪も慌てて気持ちを切り替えた。 |
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