君の愛を奏でて3
番外編
『Mallet & Bow』
〜2〜
高等部1年の秋。 寮も校舎も離れ、部活へ行っても自分はメインメンバーで、凪はサブメンバーだから一緒になれず、まして首席とは言え部長でもなんでもない、今のところ一般部員の自分が中等部弦楽器の練習に顔を出す理由はまったく無く、凪の姿を見る機会をすっかりなくしてしまった貴宏の心は相当に『やさぐれて』いた。 心の芯まで柔らかく温めてくれるあの控えめで可愛らしい笑顔がないと、気持ちが『大時化状態』のままで凪いでくれない。 彼はその名の通り、『凪』なのだと思い知った。 そして、出来ることなら自分の心だけを癒して欲しい……などという、我が儘な思いに行き着いたが最後、一気に恋心は募り、いても立ってもいられなくなった。 こうなったらもう、実行あるのみ! 誰もがそう評するとおり、自分は『有言実行』の男なのだからと、自身に発破をかけて、貴宏は決行の日を探った。 ☆★☆ 「凪」 誰かに呼ばれた。 それはもちろん自分の名前で、管弦楽部の同級生たちはみんなそう呼ぶ。 けれどそれは、自分をそう呼ぶにはまったく聞き覚えのない声で。 先輩たちの中では、自分のことをそう呼ぶのは理玖ひとりで、その他の先輩からは苗字で呼ばれている。 けれどやっぱりそれは、聞き慣れた理玖の声ではない 振り向いてみれば、そこには同級生の姿はなく、何故か打楽器の首席奏者がいた。 ――今、誰に呼ばれたんだろう? 不思議だったが、目が合ってしまった以上、2つも上の先輩を無視するなんて恐ろしいことができるはずもなく、凪はぺこりと頭を下げた。 ここは練習室が並ぶ、音楽ホールの2階。 今日も『コソ練』に精を出し、そろそろ帰らないと課題をやっつける時間がなくなるなと思って練習室から出てきたところだ。 久しぶりに見かけた、凪にとっては『偉人』である彼――里山貴宏は、高等部へ上がって一層男らしくなって、見惚れるほどだ。 ――理玖先輩と上手く行ってるのかなあ。 なんてボンヤリ考えていたのだが、貴宏は一向に立ち去る気配を見せない。 上級生が先に行ってくれないと、下級生はなかなか身動きが取れない。 部活の上下関係はキビシイのだ。 「凪、今、時間あるか?」 目の前で、『偉人』がそう言った。 ――凪って、だれ? それは自分の名前だが、自分のこととは到底思えなかった。 かつて彼が中等部の部長だった頃、何度か――片手で足りるほど――名前を呼ばれたことがあったけれど、それは必ず苗字だったはずだ。 「…あ、あの、ええと…」 「突然ごめんな。ホワイトボードみたら、ここに凪がいるってわかったから、待ってたんだ」 今度こそ間違いなく、自分が『呼ばれた対象物』だと察して、凪は固まった。 何かやらかしただろうか、いや、何かやったにしても、今の部長は理玖先輩だから、いやいや、高等部の部長は…などと、ともかくこの恐ろしい状況を何とか把握して、それから打破せねばならないと、わけもわからぬままに退路を探る有様で。 「ちょっと話に付き合って欲しいんだけど」 少し空いていた距離は、ほんの数歩で縮まった。 目の前には、少し見上げないといけないほどの長身。 そこから見下ろす眼差しは、どこか切羽詰まっている様子で、そのことがまた凪を怯えさせた。 「あ、僕、あの…」 はい、とも、いいえ、とも言わないうちに、凪は手を掴まれて今出てきたばかりの練習室へと引っ張り込まれる。 「久しぶりだな、凪」 改めて向き合うと、今まで聞いた事がないほど優しい声でそう言われ、凪は目を見開いた後、少し落ち着きを取り戻した。 この様子では怒られるのではないと本能的に感じたのと、さっさと話を聞いて、この威圧感たっぷりな先輩の前から逃げだそうと算段していたのと両方で。 「理玖からはいつも聞いてたんだ。凪が頑張ってるって」 その口から理玖の名を聞いて、凪はまた少し警戒を解いた。 理玖絡みなら、きっと悪いことはないはずだと。 けれど、次に聞いた言葉は、凪の理解の範疇を軽く超えた。 「でも俺、高等部へ行ってから、凪に全然会えなくなって、辛かったんだ」 意味がわからない。どうしてこの人が辛いのか。 「凪が好きで、凪に、側にいて欲しいと思った」 続く言葉はすでに言葉として認識出来なかった。 「俺の気持ち、受け入れてくれ」 ガシッと両手を握られて、真正面から射抜くように見つめられたが、凪はもう、身じろぐことすらままならない。 そして、2人の間に横たわる沈黙に耐えられなくなったのは、貴宏の方だった。 「…なぎ」 何のリアクションもない凪の様子に不安が募り、握っていた両手をそっと引いて、まだ幼さを残した小ぶりな身体を抱き込もうとした、その時。 「…ひどい」 ポツっと呟いて、凪はその瞳から大粒の涙をボロボロと零した 「…凪?」 「酷いっ」 もう一度同じ言葉を、今度ははっきりと叫び、凪は包まれた両手を振りほどくと、乱暴にドアを開け放って、駆けて行ってしまった。 ☆★☆ 何が拙かったのか、まったくわからない。 大粒の涙を零しながら走り去ってしまった凪の後ろ姿が、胸に突き刺さっている。 想いを込めたつもりだったのに、まともに言葉を交わすことすら出来なかった。 どうして泣かせてしまったのか。あんな言葉まで零して。 貴宏はあれからため息ばかりついている。 無論、部活の時には集中している…つもりだったのだが、近しい同級生たちからは、『何か疲れてね?』と、気づかれる有り様で。 何とかしてもう一度接触をはかろうと躍起になったのだが、凪の姿はどこにもなく、中2の連中に尋ねてみても、凪は最近ひとりで行動しているらしく、あまり姿を見かけないと、彼らも不思議に思っている様子が伺えるばかり。 恐らく避けられているのだと、いくらなんでも気がついた。 貴宏としても、いきなりハッピーエンドなんて夢を見ていた訳ではないが、これからゆっくりと関係を育てていければと思っていて、よもや『完全な拒絶』など、想像もしていなかった。 ――どうすんだよ、俺…。 けれど、どうしても諦めることは出来なかった。 自分の『これから』に、あの笑顔――凪の存在は絶対に欠かせないのだと、すでに思い知っている。 とにかく、何が何でも凪と接触を図って話をしなければ…と、貴宏は行動計画を練り始めたのだが…。 ☆★☆ その変化に、理玖はすぐに気がついた。 少し離れたところに見つけた凪の、ふと伏せた顔に落ちた暗い影。 凪のあんなに沈んだ顔は見たことがない。 もちろんすぐに声を掛けたが、それは理玖がさらに不安を募らせる結果になった。 凪が『何でもないです』と、作り笑顔で誤魔化したからだ。 何があったのか。 取りあえず、凪の同級生たちにそれとなく探りを入れてみたのだが、どうやら凪は、周囲を完璧に誤魔化している様子で、何も得られなかった。 ただ、ここのところ一人きりで練習している事が多いらしく、合奏以外の時間にあまり姿を見かけない…と、心配している様子だったのは桂で、彼によると、同級の間で何かトラブルが発生したということはまったくなかった。 ――どうしたもんかな。 何もないはずはない。ならばどうすれば…と、考えを巡らせていた時、オーボエのパートミーティングで和真が漏らした一言を、理玖は聞き逃さなかった。 『里山先輩、何か調子悪いみたいで…』 理玖はまだメインメンバーではないが、和真はすでに次席につけてメイン入りしている。 そのメインメンバーの合奏中、どうにも調子が出ない様子だというのだ。 その情報からたぐり寄せてみれば、今まで思いつかなかった『あること』に行き当たった。 考えてみれば、貴宏は何度となく、理玖に凪の様子を尋ねてきた。 そもそも『中等部のことは中等部に任せておけばいい』と言うスタンスの貴宏は、高等部へ進学してからは、後輩の事をわざわざ尋ねてくるようなことはなかったのに。 そう、凪のこと、以外は。 ――まさか…。 取りあえず、気になったことは端から潰していくしかない。 大切な凪をこのままにするわけにはいかないから。 ☆★☆ 「はあっ?! いきなり告白したんですか?」 「…ああ」 「なんですか、それは」 何かの端緒になればと、半ば藁にもすがる思いで貴宏と話をしてみれば、返ってきたのはあまりにも意外な言葉だった。 よりによって何の前触れもなく、待ち伏せしていきなり告白したなどという、あの凪に対してよくもまあそんな事が出来たものだと、開いた口が塞がらない。 「や、なんでってそりゃ、俺だって思い詰めた結果でさ…」 壁にもたれて腕を組み、ため息をつく様は、彼の信奉者にとってはとてつもなく魅力的な姿なのだろうけれど、あいにく理玖にそう言う意識はない。 「先輩、自分がどういう立ち位置か理解してます?」 「あ?どういう意味だ?」 だから、カリスマ打楽器奏者だろうが関係無く、その前で仁王立ちになって言い放てる。 「自分が長い管弦楽部の歴史の中でも『特筆すべき才能を持つ打楽器奏者』って言われてるの知ってるでしょう?」 「まあな」 「そんな先輩が、今まで黙って見守ってきただけの凪にいきなり告白して、受け入れてもらえるわけないじゃないですか」 あんた、バカですか…とは、いくら何でも先輩に向かって言えるわけがないが、口にしなかっただけで、ニュアンスはこれでもかというくらいぶち込んでみたつもりだ。 「…なんでだよ」 案の定、返ってくるのは『ぶすくれた』返事で。 「凪にとっての里山先輩は、単なる『偉くて遠い人』で、それ以外の何ものでもないですよ、残念ながらね」 つまり、これっぽっちも恋愛対象ではないのだ。 それならむしろ、自分の方がまだ凪の恋愛対象になれる可能性は高かろうと、理玖は自負できるくらいで。 「それに、そこまで思い詰めるほど好きになったってことは、凪の性格も良くわかってるはずだと思っていいですよね?」 「…そりゃそうだろ。ずっと凪を見てきて、行き着いた想いだからな」 「じゃあ、なおのこと、『よくもいきなり告白が出来たもんだ』って、呆れてあげますよ。…ったく、どこまで直情型なんですか。」 けちょんけちょんにやり込められて、カリスマ奏者は沈黙した。 「もしかしなくても、先輩、人生初挫折でしょ」 それでもまだ理玖は、痛いところを容赦なく突いてくる。 そう、こんな風に、理玖だけはいつも『本当のこと』を言ってくれた。 周り――もちろん顧問を除く――は自分を持ち上げるばかりで、中学の頃にはうっかり自分を見失いそうになることもあった。 そんな自分を、いつも理玖は、丁寧で優しいけれど、はっきりした物言いで諫めてくれたのだ。 それは貴宏にとって、ありがたいことであり、中等部を卒業する頃には、理玖は後輩と言うよりはもうすでに親友に近い存在だった。 だから、部長を引き継いだ時に聞いてみた。 どうして自分に対して、こんな風に接してくれたのかと。 すると理玖は、可愛らしく笑ってこう言った。 『持って生まれたカリスマ性任せでワンマンに突っ走って、肝心なところで転けてしまう…って言う、うちの兄貴とソックリだなと思って、心配で目が離せなかったんです』と。 それに、一見では、冷静沈着・泰然自若のようでも――実際ほとんどの管弦楽部員と同級生はそう思っているし、自分もそうあろうと振る舞ってきたが――実は直情型な面も多々あるのだというのも理玖にはすっかりバレていた。それも件の兄貴にそっくりらしい。 そんな兄貴と一度会ってみたいと思ったのだが、その兄貴は8つも年上で、すでに海外へ留学していて、相変わらず突っ走っては転んでいるらしい。 それを聞いたときには思わず笑ってしまったが、今まさに、自分がそうだろう。 ひとりで煮詰まって、ひとりで突っ走って、見事にすっ転んだ。 「とにかく凪が悲しんでるのは事実だし、それは僕には耐えがたいことです。それと、先輩の想いが本物なら何とかしてあげたいって気もあります」 「理玖…」 「念のため確認ですけど、本気で凪が好きなんですよね」 「当たり前だ。凪しかいらない」 「…わかりました」 本気には違いないのだろうけれど、相手のあることに関しては、必ずしも本気が通用するとは限らない。 けれど、凪も貴宏も、理玖にとっては大切な人だから、出来ることなら良い方向へ行って欲しい。 ――でもさ、自分の想いもままならないのに、人のお世話だなんて、僕も大概だよなあ…。 ちょっと切なく笑って、理玖は気持ちを切り替えた。 明日、凪を捕まえて話をしよう。 そう決めたのだが、その前に事態が動いてしまった。 ☆★☆ ――なんでこんなことになっちゃったんだろ…。僕が何をしたって言うんだろ…。 人気の無い裏山の片隅で、凪はひとりで膝を抱えていた。 一応着込んでは来たけれど、深まりつつ秋の風は冷たい。 それでも、混乱したままの頭を冷やすにはちょうどいい気がして、ここにうずくまっている。 ここ数日はまともに練習もしていない。 だから合奏中も上手く行かなくて、それで余計に落ち込んで…の悪循環だ。 ――先輩、なんであんなことしたんだろ…。後輩をからかって遊ぶようなヒマないだろうに…。 しかも理玖という素敵な人がありながら、自分にあんな酷いちょっかいをかけるなんて、理玖にも悪くて顔が合わせられなくなった。 ――…あ、もしかして、それ? 僕が理玖先輩に懐いてるから、それが気に障ったとか…。 それ、ありそうだな…と、また落ち込む。 けれど、あんな凄い人が自分みたいな何の取り柄も無いただのチビに敵愾心なんて持つことはないだろうと、また無限ループに陥って。 ――ああ…あれか。僕、ちっとも上手くならないから、もしかして邪魔…なのかも。 それが一番ありそうな気がした。 里山貴宏という希有な才能をもつ打楽器奏者は、合奏全体に対する要求も高い。 それは、たった1年でも、中等部で一緒だった時からよく知っている。 でも、あれだけ自分にも周囲にも厳しくなければ、ここ――聖陵学院管弦楽部のレベルは保てないのだと言うことも、凪にはわかっている。 ――やっぱ、背伸びし過ぎちゃったのかなあ…。 そう思い至ると、もう、取るべき道はひとつ…のような気がした。 ☆ .。.:*・゜ 「川北、ちょっとおいで」 顧問に手招きされて、凪はバックステージの片隅にやって来た。 「どうした? ここのところ元気がないようだけど、具合でも悪いか?」 気遣わしげに尋ねられて、凪は小さく首を振った。 「…あ、いいえ、何ともない、です」 「そうか?でもな、随分顔色が悪いぞ」 柔らかい表情と優しい声。 練習の時だけは厳しいけれど、普段はとても優しい顧問は、管弦楽部全員の憧れだ。 今もし、自分が決断しても、顧問は現在担任でもあるから、もうあと暫く、繋がりは切れない。 だからなのか、凪は……。 「先生…僕…」 「ん?」 口にしてしまった。 「退部…したい、です」 「…えっ、なんだって?!」 目を見開いた顧問に手を引かれ、音楽準備室に連れて行かれた。 ゆっくり話を聞いてくれようとした顧問だったが、凪は頑なに、『もう限界なので、やめたいです』とだけ、繰り返した。 もう何も考えられなかったし、考えたくもなかった。 ☆★☆ ――何があったんだ、いったい。 教室でも部活でも元気がない様子が気にかかり、情報を集めてみたがそれらしいものが出てこなかったため、祐介は直接本人を捕まえた。 その結果が『退部の申し出』というとんでもないもので。 けれど、当の凪は、どこにこんな頑固な一面を持っていたのかと思うほど、頑なに退部を言い張った。 理由を聞いても、『実力不足でついて行けなくなった』の一点張りで。 実力不足でないのは、祐介が一番良くわかっていることであるけれど、すでに心を閉じた状態に陥っている凪には届かない。 思い詰めた所為だろう、顔色も悪いため、とりあえず斎藤に連絡して凪を静養室に送って休ませた後、祐介はチェロのパートリーダーを呼び出した。 「えっ?!川北がやめたいって言ったんですかっ」 案の定、高3のパートリーダーは、座っていたソファーから転げ落ちんばかりに驚いた。 「や…、正直あんまり唐突で、ちょっと言葉がないって言うか…」 「ってことはやっぱり、心当たりはないってことだな」 「もちろんです。先生もご存じの通り、今のチェロパートは結束も固いですし、パート内でもめ事もありません。 川北は、目立ちはしませんけど、心配りの出来る優しい子で、中1の子も懐いてますし、俺たちも可愛がってます。 だから、やめたいなんて言い出す理由がどこにあるのかさっぱりわかんなくて…」 あからさまに困惑した様子を見て、やはりここも原因ではないなと確信する。 もとより、違うだろうとは思っていたが。 「っていうか、やめられたら困りますっ」 「だろ?」 「はいっ」 「なんとしても引き留めるから、この件は一切オフレコで頼む」 できるだけ凪には、自分が言い出したことすら忘れさせるほど自然に元の状態に戻してやりたいから。 「了解です。…それと先生…」 「なんだ?」 「何か俺に出来ることあったら、言って下さい。俺たち、絶対あいつをなくしたくないんです」 「わかった。何かあったときには頼むな」 「はいっ」 そうしてパートリーダーが帰った後、祐介が次に呼び出したのは、当然の成り行きで中等部部長の理玖だった。 |
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