君の愛を奏でて3

番外編

『Mallet & Bow』

〜1〜




 聖陵学院高等部管弦楽部長・里山貴宏は朝から落ち着かない気分でいた。

 最高学年になって1週間と数日。
 本日の部活でオーディションの結果を発表し、新体制が始まる。

 毎年、オーディションの結果発表は高等部部長の役目だ。

 発表は、オーケストラの総譜の記載順――つまり、フルートから始まり、木管・金管・打楽器・弦楽器の高弦から低弦へとなり、最後はコントラバス。

 実際100人を越える管弦楽部員全員の席次を読み上げるのは、なかなか大変な作業で、歴代部長たちも、『あれ結構キツいよな』と言い残しているくらいだ。

 そんな『席次発表』を数時間後に控え、貴宏はどうにも腰の据わらない自分を持て余している。

 恐らくそれは、ほとんどの管弦楽部員が『本日の気分』として抱え込んでいるのだろうけれど、貴宏は自分の席次が気になっているわけではない。

 きっと、顧問に一覧表を渡されても、発表前に自分の席次を確認したりはしない。
 なぜなら、首席は当然自分に決まっているから。

『過去に例を見ないくらい』とまで言われている現在の打楽器パートは、まさに実力伯仲の戦国時代真っ只中だが、その中でも自分の実力が群を抜いているのは、自覚もしているし、重ねてきた努力の当然の結果だと思っている。

 そうではなくて、貴宏にとって問題なのは、チェロ…だ。

 ――かなり頑張ったからな。いけると思うんだけど…。

 いかなるときも冷静沈着と言われた自分らしからぬ、振り回されっぱなしの気分なのは、チェロパートの席次が気になって仕方がないからだ。

 中等部から上がってきた生徒だけで構成されるはずだった今年の高等部チェロパートに、音楽推薦でない、まさに異例中の異例――桐生渉が入ったことは、貴宏にとって驚きではなかった。

 事前に顧問から聞かされていたからだ。
 甥っ子が、自分でどこかのパートを希望したとしても、チェロへ誘導するから…と。

 ただ、『まあ、自分から『ここへ行きたい』ということは、十中八九ないけどな』と、顧問は言ったが。


 チェロのメインメンバーは6人。

 上から順当に行けば、高校1年の渉と凪までがメインだが、中等部の3年にかなり弾く子がいて、上位を密かに伺っている。

 渉の実力は演奏を聴くまでもなかった。
 顧問が、『今すぐデビューしても差し支えのないレベル』と評したのだから。

 そうなると恐らくメインの最下位は、凪か、中学生か…。


 ――あんなにがんばってるんだから、なんとかメインに入れてやりたいよなあ…。

 恵まれているとは言えない手の大きさで、一生懸命に練習する姿は、凪が入学してきて以来、もうずっと見てきている。

 今年ももちろん課題曲――今年はまた特に難易度が高かった――を必死でさらっていて、オーディション準備期間中は一度もゆっくり会うことができなかったくらいだ。

 だが、実力はあるのだけれど、『何が何でも』という気概は薄く、今年も自信はないと言っていて、しかも同級生に渉が現れたものだから、凪はもう端から諦めていたのだろう。

『メインでなくても弾ければ楽しいから』…と、やっぱりいつもの通り控えめに笑った凪だったのだが…。



「今年の席次だ。頼むな」

 顧問が差し出した数枚の紙切れ。

「はい」

 そこには知りたい結果がある。
 顧問が客席後方へ移動したのを確認すると、貴宏は猛然と紙をめくった。

 そして……。

 ――やった!凪、メイン入りだ!

 チェロの第6奏者。ぎりぎりだけれどメインはメイン。

 最終学年でついに同じステージに乗れることになった喜びに、思わず凪を探し出して抱きしめたい衝動に駆られたが、それを拳を握ることでやり過ごした貴宏を、万事に察しの良い理玖が、チラッと見てからひっそりと微笑んだ。


 人知れず、誰の目にも触れないところでいつも一生懸命の凪。

 優しい性格ゆえの細やかな配慮は、いつしか同級生の信頼を得て、中等部では副部長を務めていた。当時部長だった直也も『忙しくてパンクしそうになる前に、凪がいつの間にか助けてくれていたから』と話していたのを覚えている。

 貴宏は、そんな凪の様子を入学してきた時から見つめてきた。



                   ☆ .。.:*・゜



 ――なんだ…危なっかしいのがいるなあ。あんなチビでチェロ弾けるのか? 分数チェロじゃないだろうなあ。


 実力とカリスマ性を備え、中2にして打楽器の『数十年に一度の逸材』と言われた里山貴宏は、中3になった今年、中等部部長に就任していた。

 管弦楽部全体は、高等部役員が主になってまとめ上げるから、中等部役員の重要な仕事と言えば、新入生の『管理』だ。

 小学生の殻をまだくっつけたような状態で入ってくる新1年生たちは、それでも『管弦楽部に入る』という高い目標をもって受験した子がほとんどだから、入部した段階での面倒は少ない。

 むしろ問題なのは暫く経ってからだ。

 厳しい練習と学業の両立、その上初めての寮生活でホームシックになって音を上げる子は毎年必ずいる。

 それを、いかにひとりの脱落者もなく2年に上げるかは、部長を始めとする中等部上級生の肩にかかっている。

 当然貴宏もそれを『己に課せられた使命』と認識していて、入部した新1年生には細かく目を配っていたのだが、その中でも目を引いたのは、飛び抜けて小さな2人だった。

 ひとりはオーボエの安藤和真。そしてもうひとりはチェロの川北凪。

 だが、和真はその見かけに反して、他の子たちに比べて圧倒的にしっかりとしていた。

 頭の回転も速く、むしろ上級生が押され気味になるほどで、ほんの少しの期間で貴宏は『安藤和真は問題無し』と判断した。

 この年齢でオーボエという難楽器をあそこまで扱える子も珍しく、おそらくは、この先管弦楽部にとってなくてはならない人材になるであろう…とも思えた。

 同じオーボエの理玖も、『凄いのが来た』と喜んでいたし。

 ただ、『あんなに可愛いと危ないだろうなあ』と、違う意味で気を配る必要がありそうだなと理玖とは話し合ったものだが。



 それから貴宏は、もうひとりのチビ――川北凪にかなりの注意を向けた。

 凪は、いるのかいないのかわからないほど大人しくて、ちゃんと学年内で馴染めているのかと心配したのだが、よく見ているとコミュニケーションはそれなりに取れているようだ。

 チェロの腕前も、同じ年頃の子に比べれば圧倒的に上手いのだが、ここ管弦楽部のレベルは世間のレベルとはかけ離れているから、当然のように最下位奏者になってしまった。

 ただ、席次については他の中1も皆同じようなものだから――栗山桂と麻生直也と安藤和真は別格だったが――そこは『これから』と言えるが。

 ともかく、貴宏にとっては凪がもっとも『この1年を乗り切れるか』という点においての不安要素だったから、常に注意を向けていた。



 打楽器というのは、弦楽器族からも管楽器族からも離れた、まるで『自治国家』のようなもので、格好をつけて表現するならば『孤高の集団』と言ったところだ。

 聖陵の管弦楽部でも、合奏が始まっても打楽器が参加するのは後半からで、つまり練習時にはあまり『つるむ』ということはない。

 だから当然、普段は弦楽器や管楽器の様子を知る由もないのだが、ただ貴宏は部長という立場上、何度も中1の弦や管の練習に顔を出していた。

 だから、目にしたのだ、何度も。
 ひっそりと片隅で、楽しそうに弾いている凪の姿を。

 それは何とも言えず温かい空気を纏っていて、貴宏の心をくすぐった。

 そんな幸せな気分が嬉しくて、いつしかその目は凪の姿を探すようになり、そうなると凪の行動の一つ一つが気にかかった。

 そうして、一層意識を向けるようになると、その行動の端々に、凪の人間性が垣間見えるようになってきた。

 誰かが荷物を抱えていたら、横から手を出して受け取り、楽しげに話をしながら一緒に運んだり…のようなことは日常茶飯事で、とにかく誰かが手こずっていたら必ず手助けをしている。

 そうかと思えば、ある時『あんなところに椅子があったら危ないな』と感じ、注意しようと思ったら、凪が気づいてそっと椅子を退け、そして何事もなかったかのように元の位置に戻っている。

 誰かの譜面台から滑り落ちた楽譜を拾い、丁寧に埃を払ってから黙ってそっと返し、自分のすべきことに戻っている。

 とにかく凪は、誰かが見ていても、いなくても、いつも同じように『誰かのために』動くことを惜しまない。


 ――優しい子なんだな……。

 凪を『不安要素』として注視していたはずなのに、いつの間にかそんなことは彼方に忘れ果てていた。

 今はただ、『凪そのもの』を見るのが楽しくて、目を離すことが難しくなるのにさほど時間はかからなかった。

 心惹かれている…と、自覚したのは、中等部を卒業する頃だった。



                     ☆★☆



「はあ…」
「どした? えらく深刻なため息ついて」
「…あ、桂」

 合奏室に居残って、こっそりとひとり練習――『コソ練』と管弦楽部員は言っている――を続けていたつもりだった凪に、掛ける声があった。

「ごめん、いたんだ。邪魔しちゃったね」

 みんな先に帰ったと思っていて、まさか桂が残っているとは思わずに、ひとり黙々とボウイングの練習をしてしまい、凪はひっそりと恥じ入る。

 きっと、もどかしい手つきだなあと思われたはずだと。


「何言ってんの。凪の練習を邪魔したのが俺じゃん」

 桂は現在トップサイド。つまりファーストヴァイオリンの次席奏者で、凪たちの学年でただひとり、中1の時からメインメンバーだった出世頭だ。

 クラシックファンなら誰でも知っている大物音楽家を父に持ち、あまりにも飛び抜けた才能を持っている桂とは次元が違いすぎる…と、凪は当初、少し距離を取っていたのだが、桂はそんなことはものともせず、凪の懐に飛び込んできた。

『同じ弦楽器なんだからさ、仲良くしよ? でさ、6年間一緒にがんばろうな』…と。

 だから、桂とは何でも話し合える間柄だったし、たくさんアドバイスももらってきた。

 先輩には聞きづらいことも、桂にならすぐ相談できたから、桂のおかげで随分部活動が楽になったと言ってもいいくらいで。

 今では管弦楽部の同級生全員の結束は固いが、やはり突出した実力を持っていた故にどうしても敬遠しがちだった直也や和真と最初に言葉を交わすきっかけを作ってくれたのも、桂だった。


「けど、凪っていつも頑張るよなあ」

 どうやら楽器の手入れをしていたようで、ケースを閉めると、凪の前にある椅子に背もたれを前にして向き合うように、ストンと腰を下ろした。

「で、なんでため息ついてんの?」

 話してみ?…と、柔らかく声を掛けられて、凪はまたひとつ、ため息をついた。

「…だって、僕は下手くそで、なかなか上手くならないから…」

 けれど、桂は凪の言葉に目を丸くした。

「あ?何言ってんだよ。お前、いつも丁寧に弾いてるじゃん。基礎もしっかり押さえてるしさ。俺はいっつも良い感じだなって思って聞いてるけど?」

 そう言われるのは本当に嬉しいけれど、でも、結局の所は『上手く弾く』ことが求められているのだから…と、凪は少し悲しくなる。

「でも、桂みたいにカッコよく弾けないよ?」

 話しやすさからつい本音を零してしまったら、桂は大きな手のひらで凪の頭をぐりぐりとかき混ぜて笑った。

「それは仕方ないって。だって、俺は将来これで生きていこうと思ってるもん。カッコよく弾けなきゃ仕事にならないじゃん?」

 ヴァイオリンケースを指して言う桂が眩しくて、頼もしくて、沈んだ心がふわっと浮き上がる。

 こんな風に、桂はいつも凪の気持ちを引っ張り上げてくれるのだ。

「凪の良いところは、絶対手を抜かないとこさ。 結果は必ずついて来るし、俺たちまだ中2だし、これからってことで、今のところはいいんじゃね?」

 確かに、他の学年を見ても、中2の段階でこんなにもメイン入りが出た学年はない。

 優秀な生徒が集まった学年に、たまたま紛れ込んでしまった…と思えば、気は楽になる。

「それにさ、理玖先輩も言ってたぞ。凪は頑張り屋さんだねって」
「理玖先輩が?」

 1年上のオーボエ奏者・理玖は、凪が入学して間もない頃からいつも気にかけて、優しい言葉をかけてくれる大好きな先輩だ。

 部長になって忙しくなっても相変わらず、凪のことを気にかけてくれている。

「理玖先輩が後輩のことよく見てるっての、凪も知ってるだろ?」
「うん」
「その理玖先輩が言うんだからさ、信じてこれからも頑張ればいいじゃん」
「そっか、そうだよね」

 上手く弾けても弾けなくても、自分は頑張るしかないんだと納得して『ありがとう』と微笑んだ凪に、桂は『よっしゃ、いい顔』と、笑ってまた凪の頭をかき混ぜた。



                     ☆★☆



「な〜ぎ」

 明るい声と同時にポンと肩をたたかれて、凪もまた、明るい顔で振り返る。

「理玖先輩!」
「だんだん暑くなってきたけど、大丈夫? 体調崩してない?」
「はい!元気です!」

 いつもこうして気にかけてくれる理玖だけれど、凪は理玖の体調の方こそ気がかりだと思っている。

「理玖先輩こそ、大丈夫ですか?」
「ん? 何が?」

 男子中学生の暑苦しさなどこれっぽっちも持ち合わせない涼やかさで微笑む理玖だけれど、どうみても頑丈には出来ていないように見えて、不安になるのだ。

「部長って、大変そうですし…」

「ん〜、まあね。でも、大きな部分は高等部の先輩方の指示通りにやればいいことだし、こっちは同級生たちがみんな助けてくれるから、どうってことはないよ」

 本当に、『どうってことない』風情で言う理玖には、いつも穏やかで余裕の雰囲気が漂っていて、そんな様子に凪はいつも密かに憧れている。

 こんな人になれたらいいな…と。
 高望みなのはわかっているが。


「それに、オーバーフローになる前に周りの助けを借りることも、トップに必要な判断力のひとつなんだ」

 相変わらず優しげな表情のまま、凄いことを言ってのける理玖を、凪は感嘆の眼差しで見つめてしまう。

 だが、その視線に気づいた理玖は、珍しく悪戯っ子の笑顔を見せて、ペロッと舌を出した。

「な〜んてね。全部里山先輩の受け売りだけどさ」

 あははと笑う理玖は本当に綺麗で、でも親しみ易くて心がフワッと浮き立つ。

「あの、理玖先輩」
「ん?なに?」
「先輩はどうして僕のこと、凪って呼ぶんですか?」

 一度聞いてみたかったことだったから、浮いた気分に任せて口にしてみた。

「あれ?嫌だった?」
「あ、そうじゃなくて、凄く嬉しいんですけど…」
「ああ、凪のことだけ、名前だから?」

 他の後輩はみな、苗字で呼ばれている。

「えと、そうです」
「それはね、凪を見て、入学したばかりの頃の自分を思い出したからなんだ」

 そっと凪の肩を抱いて、理玖はゆっくり歩き始める。

「僕は入学した時、一番小さかった所為で先輩たちから『理玖ちゃん』なんて呼ばれてたんだ。実家が遠くてちょっとホームシックになりかかったときでも、そうやって優しく呼ばれたら、何となく元気が出たからさ、凪にもいつも元気でいて欲しいなあって」

 温かく微笑む理玖は、それはもう、外見だけでない美しさが滲んでいて、凪は眩しい思いで見つめてしまう。


 ――やっぱり、お似合いだよなあ。

 今年の春頃から、理玖に関してある噂が立っていた。

『中等部の前部長と現部長はデキている』

 1年違いの彼らは、中等部の管弦楽部長を引き継いだ間柄で、しっかりした体躯で大人びた雰囲気を持ち、『いかなる時も冷静沈着なる有言実行の男』と呼ばれている貴宏と、『聖陵三大美少女』のひとりとされている理玖は確かにお似合いで、噂になる前から、2人で話している現場を見かけるたびに凪はいつも『目の保養になるカップルだなあ』と思っていた。

 みんなが憧れて尊敬する里山貴宏は、凪にとっては遠い存在で、弦楽器と打楽器ということもあり、永遠に『管弦楽部員』という以外の接点はないけれど、大好きな理玖の相手があんな大物で嬉しいなあ…と、ただただ純粋に、眺めていた。

 そう、かなり遠巻きに。

 そんなあれこれをつらつらと考えていて、ふと、思い出した。


 ――そう言えば中1の頃って、里山先輩の視線を感じたこと、多かったなあ…。あれってきっと、危なっかしい僕を監視してたんだろうな…。

 責任感の強い部長は、ひとりの脱落者もなく中1全員を2年に上げることが出来たと喜んで、高等部へ進学していった。


 ――まあ、確かに僕はお荷物だったとは思うんだけど、とりあえず里山先輩の学年に迷惑かけずにすんだから、もういい…ってことだよね。

 幸か不幸か、自分には管弦楽部での野望は何もない。

 チェロというパートは、高等部へ上がるときに音楽推薦で『正真正銘』が入って来る可能性の高いパートだ。

 そうなったら自分がメイン入り出来る日は来ないかも知れないし、来たとしても最高学年くらいだろう。


 ――でも、弾ければそれだけで楽しいもんね。

 きっと自分は、ずっとチェロが好きで、ずっと管弦楽部が好きでいるに違いない。

 それだけで、良かった。


【2】へ

分数チェロ…ヴァイオリンと同じく、チェロにも小さいサイズのものがあり、
その大きさは分数で表されています。
1/10が最小で、8段階あります。
7/8くらいだと、通常サイズとほとんど見分けはつきません。


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