さとるくんのにっき 後日談
『最愛の人の手に渡る時』
前編
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ある晴れた夏の夕暮れ。 僕は久しぶりにここを訪れた。 ここは、指揮者・赤坂良昭氏・・・・・・そう、僕のお父さん・・・・・・の葉山の別荘。 お父さんは数年前に活動拠点を日本に移したんだけれど、その後、ドイツのオケと契約が切れた今でも、あちらからのラブコールは多く、いまだにヨーロッパと日本を行ったり来たりの生活をしている。 だから、こうしてオフをあわせるのも一苦労で・・・。 僕たち兄弟とその家族、そして、お父さんとお母さんは、季節を問わず、こうしてスケジュールをやりくりしてここ葉山の別荘に集まるんだ。 最近では一度に全員が揃うことはまずない。 けれど、年に何度かここへ来ると、いつの間にか全員と顔を合わせる事が出来るから、こうして気兼ねなく集まれる場所があるのはありがたいことだなと思うんだ。 お父さんは昨日の夜、1ヶ月ぶりに日本に帰ってきた。 どうにか1週間のオフをもぎ取ったって言って、昨夜は成田からここへ直行だったらしい。 僕は今日から3日間の予定で滞在。 上手くいけば最後の一日は、昇と光安先生に会えるはず。 残念ながら守たちとは入れ替わりになっちゃいそうなんだけれど。 お母さんは現在アメリカへ演奏旅行中。 そして、悟は・・・。 本当なら一緒に来られるはずだったんだけど、昨日終わるはずだった録音が取り直しになってしまって、まだスタジオに缶詰だから、僕は先に一人で来た。 まだ電話が入らないところを見ると、今日中の到着はなさそうだな。 少し向こうに海を眺めることが出来るこぢんまりしたサロンは、いろんな楽器が置いてあるにもかかわらず、今日は弾き手が誰もいなくてとても静かだ。 昇は、ここに置いてあるヴァイオリンがお気に入りで、到着したらいきなり弾いたりしてる。 僕も高校時代に使っていたフルートを置いてあるので、一日何時間かは必ず音出しをするんだけれど。 でも、ここへ来るときは必ず悟が一緒だったから、よく考えてみると、この部屋に一人・・・って初めてだ。 お父さんは、今キッチンにいる。 夕食にはまだ少し早いから、繋ぎのティータイムをしようってことになって。 手伝おうと思ったんだけど、ここで休んでなさい・・・って言われた。 相変わらずお父さんは僕にめっぽう甘い。 海が夕日に染まり始める。 刻々と色を変える海を暫く見ていたんだけれど、ふと部屋の中の暗さが気になり、僕は壁際のスイッチに手を伸ばす。 その時、なんとなく本棚が目に入った。 楽譜が置いてある本棚は、見慣れた物なんだけれど、その中に、どう見ても楽譜と違う物があることに気付いた。 これは多分、アルバム。 誰のアルバムだろう・・・。 見ていいかな・・・? 見て悪いものならこんな所に置いてないよね。 自問自答の末、都合のいい答えを導き出して、僕はそれを手に取った。 ずっしりと重い、布張りのアルバム。 分厚い表紙をめくると、そこには可愛らしい赤ちゃんが3人写っていた。 もう、説明の必要はない。 髪の色ですぐわかる。 悟と昇と守。 僕の兄たちの、幼い日のアルバムだ。 これはいいものを見つけたと浮かれた僕は、この宝物を腰を落ち着けて見ようと、ソファーに腰を下ろし、一つずつゆっくり検分する。 写真はどれも同じ日に撮ったもののようで、背景がさほど変わっていない。 どうみても、日本とは思えない装飾の、部屋の中。 大きなソファーの上、広いベッドの上、分厚い絨毯の上・・・。 ありとあらゆるところで、3人の可愛い赤ちゃんがころころとじゃれている。 笑い顔、泣き顔、寝顔・・・。 怒った顔がないのは、まだ3人ともほんの赤ちゃんだからだろうか? お腹でも空いているのか、不機嫌な顔はあるんだけれど。 でも、どれも、シャッターを切った人の、3人に対する愛情が溢れた、とてもいい写真ばかりだ。 「葵、お待ちどう」 「あ、ありがとう」 お父さんがワゴンを押してきた。 僕の大好きな、いい香りのお茶が、ポットから微かな湯気を上げている。 「あれ?アルバム?」 「うん、そこで見つけたんだ。3人ともめちゃめちゃ可愛いね」 「ああ、これは確か守が1歳を過ぎた頃だったかな」 「どこ?ドイツ?」 「そう、ドイツの・・・当時僕が住んでいた家だ。一度だけ来たんだよ、3人は」 手際よくお茶のセッティングをしながら、お父さんは懐かしそうにアルバムを覗いた。 「香奈子が3人を連れてきた時・・・・・・ああ、目的は昇と守を母親に会わせるためだったんだけれど、親子3組ご対面のあと、シャロンとセシリアが香奈子を食事に誘ったんだ。たまには女ばかりで羽を伸ばそうってね。 ・・・で、僕が一晩、3人のお守りをすることになったんだ」 お父さんが・・・3人の赤ん坊のお守り・・・。考えられない・・・。 そんな僕の思いははっきりと顔に出ていたらしく、お父さんは僕を見て肩をすくめた。 「なにしろ、赤ん坊はおろか、子どもすら面倒見た事がない僕に、ベビーフードとおむつをポンッと渡していっちゃったんだからなぁ。・・・もっとも香奈子は随分渋ってたんだが」 だろうね。 お母さんならきっと、3人を置いて出かけることに、すごく後ろ髪を引かれたはず。 「機嫌のいいうちは良かったんだけど、一人が泣き出したらもう、3人してぴーぴーぎゃーぎゃーの大合唱でね」 ふふっ。今はすました顔して『大人』してる3人が、大泣きしながらお父さんを困らせただなんて、想像できないから余計可笑しい。 「悟を抱き上げると昇が泣くし、昇をあやすと守が泣く。で、仕方なく悟をおんぶして昇と守を両腕に抱いて・・・。漸く3人とも寝てくれたのは、日付が変わった頃だったなぁ」 あまりにも考えられない姿に、僕は思わず吹き出す。 「あの一晩で連続1週間のオペラ公演より疲れたよ」 そして、お父さんらしいオチに、僕はついに声を上げて笑ってしまう。 「おんぶされてる悟なんて、葵には想像できないだろう?」 悪戯っぽく微笑んで言うお父さんに、僕はもちろん同意する。 「うん。全然出来ない。それに悟ね、小さい頃の写真を全然見せてくれないんだよ」 そう。ただの照れだと思うんだけど、悟はチビの頃の写真を上手く隠しちゃって、なかなか見せてくれないんだ。 「へぇ、そうなのか」 お父さんはいつも涼やかな目元を嬉しげに細めてから、また、急に目をぱちっと見開いた。 「そういえば、とっておきのがあるんだ」 「え?とっておき?」 お父さんは、立ち上がりながら『ちょっと待ってなさい』と言って、サロンを出ていった。 そして、待つこと数分。 「お待たせ」 言いながら入ってきたお父さんの手には、ポケットアルバムが。 「何しろ見せないって約束だったからな。なるべくアルバムとはわかりにくい簡単なものに入れて、しかもここではなくて僕の寝室の本棚の隅っこに隠してたんだが」 人目につかないように? 本棚の隅っこに? 隠してた? そのワクワクするキーワードに、僕は思わず身を乗り出す。 「もしかして、悟の写真?」 「そう、5歳の悟だよ」 「うわ〜。その頃の写真って一枚も見たことないよ」 渡されたアルバムをめくってみると、そこには・・・。 「うわ〜、可愛い〜」 そこに写る小さな子には、確かに悟の面影がある! 「これ、どこ?」 「ああ、伊豆の海岸だな」 アルバムはめくってもめくっても、5歳の悟で埋め尽くされている。 かえるのリュックを背負った悟。 麦わら帽子が半分ずり落ちてるのに一生懸命遊んでる悟。 ちょっと大きめの浮き輪にしっかりつかまってる悟。 手に小さなプラスチックのスコップを持って、必死で砂のトンネルを掘ってる悟。 そして、線香花火に歓声をあげる悟。 あ、絵本を読んでいるのも! 端から端まで、いろんな悟のオンパレードだ。 「ねぇ、お父さん。悟しか写ってないけど」 昇と守の姿がない。 「その時ちょうど、香奈子と昇と守はウィーンに行っていたよ」 ああ、恒例の母子対面か。 「だから、その時は親子二人旅だったんだ」 「そっか・・・」 「滅多に会わない父親に連れられて、悟も最初はそうとう戸惑っていたようだったけれど、2泊3日の間に随分馴染んでくれたからね。行って良かったと思ったな・・・」 悟とお父さんの大切な思い出・・・。 「そのアルバム、葵にあげるよ」 え? いきなり言われて僕はお父さんを見上げる。 「僕はこの時の思い出をちゃんと胸の中にしまってある。だから、これは葵にあげるよ。葵が知らなかった頃の悟も、葵のものにしてしまえばいい」 お父さんはまた、いたずらっ子の微笑みで僕を見た。 「いいの?本当に、僕がもらっちゃって・・・」 「もちろん」 こうして、僕は宝物を手に入れた。 けれど、それだけでは終わらなかったんだ。 夕食後、今度、学内オケとやることになっているコンチェルトを少し見てもらい、さて、もう遅いから休もうかといった頃・・・。 「ああ、葵。さっきあげた悟のアルバムだけど」 「うん」 「宝探しをしてごらん」 「宝探し?」 僕の問いに、お父さんは楽しげに笑っただけで、答えはくれなかった。 |
後編へ続く |