Eine Flote des Winters
渉(わたる)15歳、英(すぐる)13歳の冬。
「おい、待てよ、渉」 3つ前の足跡がすぐに消えてなくなるくらいの雪の中、学校の門をでてすぐ、僕は捕まった。 スクールバスに乗らずに寄り道して帰ろうとした放課後の事だ。 さっさとひとりで学校を出て、今日はこのままひとりで寄り道して、英とは顔を会わせずにいたかったんだけど…。 一緒にいれば英はまた、あの『もの言いたげな』顔をするだけだろうから。 「そんなに引っ張るなって。痛い」 『痛い』その一言で、僕の腕を掴んでいた強い力はパッと消えてなくなる。 そう、いつもそうなんだ。 「ごめん」 力任せに掴んだクセに、慌ててすまなそうな顔をする英…。 「…いいけど、別に…」 そうして、僕がすぐに許してしまうのもいつものこと。 僕は、僕より頭ひとつは軽くでかい、目の前の弟をチラッと見上げてため息をつく。 そしてまた、歩き出す。 英はピッタリと僕に寄り添って…。 この季節、この地方ではこんな雪は珍しくない。 だから僕たちは傘なんかささずに、完全防水になったフードつきのコートをきっちり着込んで登下校してる。 まあ、特に冬の間は毎日スクールバスのお世話になるからあんまり関係ないけど。 「何処いくんだ?」 「何処でもいいじゃない。英こそ、僕につき合ってないでバスに乗ればよかったのに」 「ひとりで行かせるわけにはいかないだろ」 なんだよそれ。 僕の方が年上なんだぞ。 ちょっと図体がでかいからって、いつもいつも、僕の保護者みたいに。 「で、何処いくんだよ」 いいながら、肩を抱かんばかりにくっついてくる英から、少しでも離れようと僕は足を早める。 「買い物」 「何買うんだ」 「何でもいいだろ」 そう言うと、英は黙った。 でも、相変わらずぴったりと僕にひっついてくる。 買い物というのは嘘じゃない。 ただ、ちょっとだけ口実も混じってるけど。 そう、スクールバスに乗らずに、寄り道して帰る…って言うことの。 で、どうしてスクールバスに乗りたくなかったかっていうと、理由はただひとつ。 英と顔をつきあわせたくなかったからだ。 なのに…。 いくらか歩いて……早足のせいか、すぐ着いた……僕は目当ての店に入る。 当然、英も後ろから入ってくる。 ここは街の小さな楽器店。 『やあ、坊ちゃん方』 小さい頃から顔なじみの、優しい笑顔が僕たちを迎えてくれる。 でも、いい加減『坊ちゃん』は恥ずかしいんだけど…。 『こんにちは。この前お願いしたの、来てますか?』 『ええ、入ってますよ』 いいながら、手の届く棚からサッと出してくれたそれは、どうやらいつ僕が来てもいいように用意されていたようだ。 『ピンクとブルーがありますけれど』 並べられたそれは、カタログで見るよりも、もっと透明感のある綺麗な色で、プラスチック製のおもちゃとは思えないほどいい出来だった。 『やっぱりピンクかな』 『だな』 僕の頭上から声がする。 そして後ろから長い腕が伸びてきて、僕の肩越しに、そのプラスチックでできた『ピンクのフルート』を手に取った。 僕よりも数倍、いや数十倍、物事に聡い英は、一目見ただけで、僕が誰のための買い物に来たのかわかったようだ。 『かわいいじゃないか』 『だろ? この前、パパの楽譜を取りに来たときに、カタログでみつけたんだ』 『奏(かなで)、喜ぶだろうな』 『うん、これで僕のフルートも悪戯されなくなると思うし』 僕は英の手から『ピンクのフルート』をとり、包んでもらうようにお願いした。 もちろんキーも何も付いてなくて、ただの横管に指で塞ぐ穴が付いているだけのものだけど、でもきっと奏は気に入ってくれるだろう。 奏は歳の離れた僕たちの妹。今、5歳だ。 悪戯盛りで、僕がフルートのレッスンをしていると、必ず邪魔しに来る。 英がチェロのレッスンをしていても、全然知らん顔してるクセに…。 そして、最近ではフルートケースの開け方を覚えてしまったらしく、勝手に取りだして触るようになってしまったから油断も隙もあったもんじゃないんだ。 だから僕は、このフルートをカタログで見たときに、即注文したんだ。 奏にプレゼントしようって。 僕たちは、温かい笑顔に送られてまた雪の降りしきる外へ出る。 華やかさはないけれど丁寧に包まれた細長い箱をギュッと抱きしめると、英が俺の肩を抱いてきた。 「なんだよ」 払いのけようとしても英の力は13歳とは思えないほど強くて…。 「話がある」 ……そんなことわかってる……。 この間からずっと僕の顔を見て、文句言いたそうにしてたから。 でも、そんなこと知らないふりで僕は言う。 「何?」 「来月、東京に行くって」 「行くよ」 「受験だって、母さんが言ってた」 「そうだよ。入試受けに行ってくる」 「どうしてっ?!」 僕はいきなり両肩を掴まれて、向き直らせられた。 「何で今さら日本なんだよっ。ずっとこのままここにいた方がいいに決まってるじゃないかっ」 それはそう思う。音楽の勉強を続けるのなら…ね。 でも…。 「僕は、別に音楽家になりたいわけじゃない」 「……な……」 僕を射抜いていた視線はそのまま絶句した。 僕の周囲と同じく、英もまた、僕が音楽の道を進むものと、なんの疑いもなく思いこんでいただろうから。 けれど、僕にとって、その現実は重いだけ。 そんな重い現実よりも、僕には会いたい人がいる。 だから、僕は日本に帰りたいんだ。 「もしかして…あいつか?」 険を含んだ声に、僕はそっとため息をつく。 「あいつ…ってなんだよ。あの人は僕たちの大切な…」 「わかってるっ」 先を言わせまいとしたのか、大きな声で僕の言葉は遮られた。 そう、僕はあの人にあいたい。 年に一度しか会えない、僕の大切な人。 あの人は忙しくて、日本を離れる事なんてできない。 だから、僕が行くんだ。 「あいつに会ってどうするってんだっ。 あいつには恋人だっているんだぞっ」 「わかってるよ」 そんなことも、わかってる。 僕が物心ついたときには、もう、あの人の隣には、優しい笑顔がいつもより添っていたから…。 でも、会いたいんだ…。側に、居たいんだ…。 ただ……、それだけなんだ…。 「俺も行く」 重大な決意を含んだように、重い声がした。 「どこへ」 わざと聞いてやった僕に、英はもう一度、低い声で言った。 「俺も日本に行く」 「バカ言うなって。中等部の途中編入は認められてないよ」 「公立なら転校できる」 ……ああ、もう…。 「そんなコトしても無駄だよ。僕は寮へ入るんだから」 「……っ」 唇をきつく噛んだらしく、見上げた唇に少し血が滲んでいた。 「こら、ダメじゃないか」 たまに『兄らしく』そう言うと、唇はさらにきつく噛まれて、そして…。 「…英っ?!」 僕の肩を掴んでいた両手は離れ、そして踵を返して白い視界の中を走っていってしまった。 1月のベルリン。 生まれたときからずっと離れたことのなかった僕たちが、海を越えて離れ離れになる、2ヶ月前の出来事だった。 |
END |