幕間 「羽化、するとき」

【2】





 ――暑苦しすぎる。

 和真は目の前の光景に、心の中で呟いた。

 ――マジ、クラス別れてよかったし。

 この暑苦しさをHRにまで持ち込まれては叶わない。



 部活が始まるまでのほんの少しの空き時間。

 渉を挟んで直也と桂がこれでもかというくらいベタベタと引っ付いていて、和真的には見るだに鬱陶しい。

 もちろん渉が…ではなくて、直也と桂が…だが。

 英が中等部の弦楽器に呼ばれて、先にホールへ向かってくれていたのが唯一の救い…か。

 この場に英がいたら、いくら『一応』認めるとは言っても、険悪な雰囲気になっていたに違いない。

 まあ、もし英がいたら、2人とももう少し遠慮するかもしれないが。


 ベタベタと引っ付いて何を話しているかと言えば、どうやら渉をどこかに連れ出そうという算段らしい。

 そういえば、渉の誕生日の頃は、渉との溝もマックスで、2人が画策していたらしき『誕生日デート』なんて夢のまた夢状態だった。


「え? ディズニーランド?」
「そう、行ったことあるだろ?」
「ええと、東京はない。パリだったらあるんだけど」
「ああ、あれな。はっきり言って東京の方が楽しいし」

 桂が言うと、直也が『へ〜、違うんだ。まったく同じだと思ってた』と、驚いている。

 ――おいおい、キミたち3人がディズニーランドなんか行ったら、悪目立ちしませんかってんだ。

 2人の長身男前と、関係者やファンが見れば一目で『あの人にそっくり』とわかる美少年の3人連れなんて、目立って仕方がないだろう。

 それに、どうせいちゃいちゃしっぱなしだろうし。


 仕方がないからちょっと口を挟んでみる。

「お楽しみのところ悪いけどさ、明後日から黄金週間強化合宿だよ? それ乗り切ってから、ゆっくり考えれば?」

 渉も少しは体力がついてきたようではあるが、去年はこの合宿での疲れが最終的に肺炎に繋がった。

 だから、用心するに越したことはない。
 それは直也と桂もわかっているのだろう。


「だよな。慌てることないよな」
「そうそう。それに色々行き先考えるのも楽しいし」

 と、今度はスカイツリーだの何だの言いだして、結局ベタベタとひっついている。

 ――結局暑苦しいだけってことじゃん。

 要はいちゃいちゃしていたいだけなのだ。

 3人ともに苦しい時期があっただけに、温かい目で見守って上げたい…のは山々だが。

 ――ダメだ…。暑苦しい…。

 仕方なく和真は、視線をそらすことで対処する事にした。



                    ☆★☆



「え…?」

 年3回行われる管弦楽部の合宿の中でも、最も過酷と言われている黄金週間強化合宿の初日。

 各パートの首席次席を対象に、外部講師によって行われる個人レッスンの詳細が張り出されているのを確認に来た直也が、その張り紙を前に固まっていた。


「どしたの? 直也」

 隣にいた渉が声をかけ、同じように張り紙を見て、『ああ』と納得したように頷いた。

「あーちゃ…じゃなくて、藤原さんだね、今年のフルート講師」

 確か年始に聞いていた。

「藤原彰久さんって、まさかあの藤原彰久さん?」
「だよ」

 直也がわざわざ確認したのも無理はない。

 国内拠点のフルートプレイヤーとしては、おそらくもっとも人気がある『彼』が、合宿の講師に来るなどとは考えもしないことだったから。


「渉、知ってたのか?」
「うん、聞いてたけど、まだ内緒って言われてたから」
「情報源って、先生?」
「あ、うん」

 直接教えてくれたのは本人だけど、まあ同じようなもんだろう…と、渉は曖昧に頷く。

「でも、別に不思議なことじゃないと思うけど。藤原さん、ここのOBだし」

「そりゃそうだけど、こんな凄い人が来るなんて、なんだか嘘みたいでさあ」

 生まれたときからそんな『凄い』プレイヤーに囲まれて育ってきた渉には、どうということもないのだが、やはりこうしてプロのレッスンが受けられるのは、ここのカリキュラムならではで、そういえば去年アニーが来た時のオーボエパートも凄かったなあと思い出す。


「あれ? 木管分奏も見てくれるんだね。あ、藤原さん、心配しなくても優しいと思うよ」

「いや、こんなチャンス滅多にないからさ。この際、鬼でも悪魔でも何でもいい。得られるものはとことん得たいし」

「わあ、直也、カッコいい」

「え、そう?」

 渉に褒められると、その内容がどうあれ嬉しい。

「あ、そう言えば、直也も何回か葵ちゃんのレッスン受けてるよね」

 渉の言葉に、直也が頷く。渉が何を言いたいのか、わかった。

「渉のフルートの師匠も葵さんだろ?」
「うん」

 渉にも、直也が言わんとしていることがわかった。

「葵さん、優しい?」
「ううん、鬼」
「だよな」

 父と、父の兄弟全員と祖母からレッスンを受けてきたが、もっとも容赦ないのは葵だった。

「その時点で出来ないことは宿題にしてくれるけど、出来るはずだと思ったら、絶対妥協してくれないんだ」

「そうそう。僕なんか、次にいつ会えるかわからなかったから、宿題の分もその場でやっつけろって感じ。でも、そのおかげで実力ついたけどな」

 直也のその実力は、このまま音大からプロの道も十分にあり得るのに、その道はとらないと渉が聞いたのは、確か去年の年末だ。

「ね、直也はやっぱりお父さんの跡を継ぐの?」
「いや、可能性ゼロ」

 きっぱり言い切る直也に、渉は少し驚いた顔を見せる。

「え、そうなんだ」
「あれ? そう思ってた?」
「うん、音楽はやらないって言ってたし、それなら…って」
「ああ、渉にちゃんと言ってなかったか。実は…」

 直也が渉に向き直ろうとしたとき。

「ちょっとキミたち」

 背後から渉と直也にのしかかる大きな影。

「俺が忙しく走り回ってる間に、何を2人でいちゃついてるのかな〜」

 とにかくコンサートマスターは忙しい。

 直也も首席だが、まだ2年のうちは各首席との連携に気を配っていればいいことだが、桂はそうはいかない。

 ヴァイオリンだけでなく、すべての弦楽器、さらに、オーケストラ全体を把握していなければならない。

 ただ、次の管弦楽部長が直也に回ってくることは、すでに部全体の暗黙の了解となっているが。


 のしかかってきた桂に、渉が『重〜い』と抗議の声を上げた。

「あ、そういえば」

 肩にのしかかる手を外しながら、渉が『思い出した』と声をあげる。

「なに?」
「葵ちゃんのレッスンが鬼なのは、多分栗山先生の所為だ」
「え? うちの親父がなに?」

 話について来られず、桂が渉と直也を交互に見る。

「そう。葵ちゃんが言ってた。栗山先生、レッスンになると鬼だったって」

 だが渉の言葉は、疑問を投げた桂では無く、直也に向けられていて。

「あ〜、そういえば浅井先生も言ってたなあ…。言葉は優しいんだけど、絶対妥協してくれなかったって」

 直也の返事も渉へ向いている。

「だから、なんの話?」
「「やっぱり桂の所為だ」」
「なんで俺の所為よ?」

 わけわからん…と、首を傾げつつも、『いこ』と可愛い声で渉に促されると、『ま、いっか』なんて片付けてしまう自分は、惚れた弱みもいいところだよな〜…と、それすら嬉しい桂であった。



                    ☆★☆



「な、フルートの藤原先生って、めっちゃキュートで可愛かったよな」
「そうそう。なんか奥ゆかしいって言うか、でも押さえるとこは押さえててさー」

 少し離れた場所から、聞くともなしに耳に入ってくるのは愛しい恋人の名前。

 合宿初日の締めくくりである全員ミーティングを前に、全部員が集合時間に遅れないようにと集まり始めているところで、その会話は交わされていた。

 だから、意識して祐介は、部長との打ち合わせに集中しようとしたのだが。


「藤原先生って、浅井先生がいた頃のOBだって?」

「ああ、何でも奈月さんが首席で先生が次席だったときの3番目だったって話。奈月さんと先生、めっちゃ可愛がってたらしい」

 それは事実に違いないが。

「あーそれでか」
「何? なんかあったのか?」

 祐介の耳までダンボになる。いや、聞くつもりはないのだが。

「藤原先生さあ、『浅井先生』って言うとき、凄く言いにくそうにしてるんだよ。なんかちょっと恥ずかしそうでさー」

 ――そうなのか?

「あ、俺もそれ気づいてた! めっちゃ可愛くて、思いっきりツボだったし〜」

 ――なんでそれが『ツボ』なんだ!

「そうか、普段『先輩』って呼び慣れてる人を、いきなり『先生』って言いにくいよな」

「渉が『ゆうちゃん』って呼び慣れてて、『先生』って言いにくそうにしてるのと同じだよな」

 それはまったくその通りで、確かに普段から彰久は『ゆうちゃん』と呼んでいて、先生なんて、当然だが呼ばれたことはない。


「先生?」
「あ、すまん。何だった」

 集中しているはずが、すっかりすっ飛ばしていて、祐介は慌てて頭を切り換える。

「あ、藤原先生でしたら1時間ほど前にお帰りになられましたよ? 明日また、予定通りにお越しいただけるとのことでした」

 だが、聡い管弦楽部長――理玖は、祐介の意識が彰久の話に向いていたことを正しく察したようで、的確な情報をいれてくれる。

「あ、ああ、それは了解してる」

 だが、そうこうしている間にも…。


「でもさ、マジすげえ美人だとおもわねえ?」

「思う思う」

「演奏会の時とかってさ、距離もあるし、そんなに表情ころころ変えないけどさ、間近で見ると、めちゃめちゃ綺麗だし、ころころ変わる表情も可愛いし…」

「それわかる〜」

「独身だろ?」

「らしいな」

「いくつだっけ?」

「浅井先生の3つ下って聞いたけど?」

「えっ! 30越えてんだ!」

「どうみても20代前半だよなあ」

「いや、ヘタすりゃ10代でもいけるぜ、あれだったら」

「でもさ、10歳以上年下の高校生なんて、相手にされないよなあ」

「そりゃ無理だろ〜」


 ――むかついてきた…。


「藤原先生、凄い人気ですね」

 端正な顔立ちに、大人びた笑みを漏らして理玖が言う。

「…そうなのか?」

「ええ、木管分奏を見ていただいた高等部の連中は、僕も含めてみんな、いろんな意味でノックアウトされてますけど、関係無い弦楽器の連中まで騒いでますから」

 にっこり微笑む『美人』と評判の管弦楽部長にすら、下心がありそうな気までして…。

 ――なんでこの歳になって、生徒に妬かなきゃいけないんだよ。ったく。

「ま、あいつはここにいた頃からそうだったからな」

 何でもないように装って、顧問の先生はそれらしい顔を取り繕う。

 ――合宿終わったらお仕置きだな…。

 と、向ける方向が完全に間違った悋気をたぎらせて。

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