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幕間「君が選ぶ手」





「渉、今日もコンチェルトの指導、やってみないか?」

 ある日の合奏開始前。先生が舞台袖で渉に声を掛けた。

「え? どうして…ですか?」

 渉が驚いて先生を見上げる。

「この前、少し後ろで聞いてたんだ。ほら、アニーが来た日」

 渉が目を見開いた。
 ああ、これは落ち込んだな。

「ごめんなさい…」

 やっぱり。

「ん? 何を謝ってるんだ?」

 先生が少しかがんで渉の顔を覗き込む。
 うーん、先生ってほんとになにやっても様になるなあ。

「だって、先生が指揮なのに、僕がこの前色々勝手に触ったところがあって…」

 いや、アレはアレで面白かったけど。 

「何言ってるんだ」

 笑いながら先生が渉を抱きしめた。
 長身で、腕もすらりと長い先生の身体にすっぽり包まれる渉は、まるで何かのヒナみたいで、可愛いったらない。

 あれ――もちろんあの伝説の『ゆうちゃんヤダヤダ事件』のことだ――以来、先生は『僕の前限定』だけど、お構いなしに、『可愛い甥っ子を溺愛する叔父』を見せつけてくれるんだ。

 まあ、先生のこんな姿、他では絶対お目にかかれないし、嬉しかったり萌え萌えだったりして、役得だなあ…なんて思ってるわけだけど。

「これは渉のコンチェルトだぞ? 本来なら、僕にもどんどん注文をつけてしかるべきところなんだから、遠慮してないで自由にやればいい」

 先生が、渉を抱きしめたまま、その背中を優しくトントンと叩く。

「…ゆう…」

 渉がつい、先生を『ゆうちゃん』と呼びそうになったとき。

「こら、何見てる」

 先生が笑った。

 振り返ればそこに、大勢の管弦楽部員がのぞき見体勢のまま萌え死にしていた…。



                   ☆ .。.:*・゜



「お忙しいのにお呼び立てしてすみません」

「とんでもない。渉のことは気になっていたんだ。呼んでもらえて良かった」

「今回は、こっちは長いんですか?」

「ああ、定演を聞かせてもらって、その足で渡米なんだが、それまではこっちにいるよ」

 久々に会う2人は、連れ立って足早に音楽ホールに向かう。

「あれ? 悟じゃん!」
「東吾! 久しぶり」

 これから部活なのだろう、テニスウェアに身を包んだ東吾が偶然通りかかった。

「悟、一段と大人の男になったなあ」
「そう言う東吾はあんまり変わってないな」
「日々、高校生にもまれて過ごしてるんでね」

 確かに、今でも紛れ込んでしまいそうだな…とは言わないでおくが。

「渉が世話になってるそうだな。ありがとう」
「いやいや、出来のいいオコサマだから助かってるよ。守と違ってやんちゃもしないし」

 隣で祐介が吹き出した。

「行儀の良さは伯父譲りだろう」 

 悟も笑いながら言う。

「あ、そうだ。今日来てることは渉には内緒にして欲しいんだ」
「へえ、オジサマは隠密行動なんだ」
「まあな」
「了解。じゃあまたゆっくり話そうな」
「ああ、そうしよう。元気でな」
「悟もな」

 ここへ来れば、こんなふれあいがあって、いつも気分が高揚する。
 もしかしたら、人生で一番一生懸命だった、あの頃のままに。

 東吾と別れてほどなく、ホールに着いた。

「合奏はもう始まってる?」

「ええ、同室の子に協力してもらって、遅くなるから頼むと伝言してあります」 

「ああ、松山先生の甥っ子」

 さすがに渉に関する情報は行き渡っているようだ。

 悟にとっても、溺愛の甥っ子なのだから。

「アニーから話は聞いてるよ。卒業したら面倒みたいって言ってたな」

「ええ。まだ本人には知らせてませんが」

「小さくて可愛い子らしいから少し心配だったようだけど、松山先生が、あの子は世界中何処へ行っても生きていけるタイプだから…って言ったらしくて、アニーが大笑いしてたな」

「それについてはまったく同感ですね。高1にして、聖陵きっての切れ者と言われてるようですから」

「それはまた…」

 ロビーに設置されたモニターから、ホールの様子が聞こえてきた。
 2楽章の練習が始まっているようだ。

「2階へ行きますか?」
「そうだな」

 2階の一番端の扉をそっと開け、悟と祐介は長身を滑り込ませる。

 指揮台には、渉がいた。

 指示出しの声はあまりよく聞こえないが、指示のあとに流れてくる音で、渉が何をどう指示したのか、おおよその察しはつく。


 悟はそのまま暫く黙って聞いていたが、やがて小さく嘆息した。

「どう、です?」
「…驚いた」
「でしょう?」
「渉にデビューされたら、自分の仕事が減るんじゃないかって危機感煽るレベルだな」
「……それはまた…」

 悟の言葉に、やはり、ここ――指揮台――が渉の大きな羽を広げる場所だと祐介は確信した。

 あとは、それをどう開かせるか…だ。

「今度父を連れてくるよ」
「赤坂先生を?」
「多分、腰抜かすと思う。父も、渉はどの楽器をさせても一流になるとは普段から言ってるけれど、指揮者というのはまったく考えが及ばなかっただろうから」

 それは多分、赤坂良昭だけでなく、身内の全員が思っていただろうと祐介は思う。

 祐介自身、あの日――アニーが来た日――の渉を見なければ、まったく思いつきもしなかったはずだから。

「祐介」
「はい」
「渉に指揮法の基礎を教えてやってくれないか?」
「僕が、ですか?」

 祐介の言葉に、悟が口を引き結んで頷いた。

「まだ何もかもが柔らかいこの時期に、きちんと基礎を積んでおくことは何よりも渉の糧になる。ここで卒業まで祐介に育ててもらうことができたら、渉にとっては最高のスタートになるはずだ。そのあとは、僕が引き受ける」

 悟の言葉に、責任の重さに、少し震えた。

 けれど、出来ることなら、いや、出来る限りのことを渉にはしてやりたい。

「力を、尽くします」

 言い切った祐介に、悟は笑顔を見せ、そして自身にも言い聞かせるように告げた。

「お互いに…な」

 どちらにとってもかけがえのない甥っ子。
 彼のためになら、どんなこともしてやれる。

「渉が成長するにつれて悩みを深くしていたことには気がついていたんだ」

 独白のように、静かに悟が話し始めた。

「ただ、あの子は賢いから、周りの大人の口先の慰めやアドバイスは意味がなかった。だから、みんな殊更に腫れ物を扱うように接してしまっていたのかも知れない」

 周囲が彼を『ガラスの心臓』にしてしまったのだと、今さらながらに悔やまれる。

「僕も、渉は『ガラスの心臓』だと聞かされていて、その覚悟で引き受けました。 けれど渉と毎日接しているうちに、『ガラス』ではなくて、『薄い羽』なんじゃないかと思うようになったんです。 多分渉は、飛ぶための羽を、まだ広げられないだけなんだって。 渉は僕たちが考えていたよりも、もっと柔らかい心をしています」

 祐介の言葉に悟が目を見開いた。
 そして、嬉しそうに微笑んだ。

「流石だな、浅井先生」
「それ、やめて下さいってば」

 昇も葵も、ふざけて『浅井センセ』なんて言ってくることがある。

 一番酷いのは守だ。『兄さんって呼ばなきゃ、あっちでもこっちでも、せんせーって呼んでやる』と脅されまくって、今はしかたなく、『お義兄さん』と呼んでいる。 いや、呼ばされている。

 まあ実際に義理の兄弟であることは違いないが。

 ただ、接し方は変わらない。
 ここにいた頃と同じ、彼らにはずっと『尊敬する先輩』でいて欲しいから。



                   ☆ .。.:*・゜



 そうこうしているうちに、定演が近づいてきた。

 何が凄いって、渉の集中力だ。

 NKバカコンビがこんなタイミングで揃いも揃って告白しやがって、定演に影響でたらどうすんだよっ、渉はソリストだぞっ…って思ってたら。

 渉は音を出した瞬間に豹変する。
 もうそこには何もない。渉と音があるだけで。

 オーケストラの全ての音が渉に集まって、そこから無限に拡散していくような錯覚に陥るくらいだ。

 それでも渉は、ひとりっきりの世界に浸っているわけじゃない。

 全てのパート、全ての首席奏者、そして、指揮をしている浅井先生の動きの全てにありったけの注意を傾けている。

 その時の渉には、直也のことも桂のことも、何もないんだと思う。


 僕らは個人レッスンの時に、『いろんな事を経験しなさい。それが音楽の糧になるから』って言われることがある。

 それはその通りだと思う。
 泣いたり笑ったり怒ったり…恋をしたり。
 そんなことが年を重ねるにつれて音楽の厚みになっていくって事。

 でも、渉を見ていて思う。
 本物の天才ってもしかして、そんなものは生まれたときから持ってるんじゃないかなって。

 もちろん本人にそんな自覚はないと思う。

 でも、音を出した時から、彼はもう、まるで違う人生を何十年も歩んできたような表現者になる。

 まだ16才、なのに。

 僕は、この年に生まれて、聖陵へ入って、渉に出会えた幸運を誰に感謝したらいいんだろうと思うくらい、幸せだ。
 まあ、多分、親に感謝すべきなんだろうけど。


 ところが。

 音から離れた途端、渉はいつもの可愛らしくて大人しくて引っ込み思案で人見知りな彼に戻ってしまう。

 だから今は、音を出してない時は多分、直也と桂のことで頭がいっぱいになっているはずで。

 僕はずっと前から、直也と桂が渉の為にならないようなら排除してやるって思ってたけど、今のところ、悪影響は少ないような気がしてる。

 いや、むしろ渉には良い刺激なのかもしれない。

 だって、普段の渉には16才なりの生活があって、渉が渉として成長していくためには、やっぱり、泣いたり笑ったり怒ったり恋したり…っていうのが必要だと思うから。

 ただ、大きな不安がひとつある。

 ヤツらは多分、『どちらかを選んでくれ』って言い出すに違いない。

 渉にそれが出来るんだろうか。

 ひとりを選べばひとりを失うことになる。

 ただの友情だったらそんなことにはならないのに、恋情なんてやっかいなものが絡んでしまったら、失わなくていいはずだったものまで失ってしまう。

 もし渉が、本当にどちらかだけに恋心を抱けたとしても、渉のことだ、もうひとりに遠慮してしまうに違いない。

 最悪なのは、どっちにも『ごめんなさい』ってことになった場合だ。

 渉はきっと、深く傷つく。多分、自分を責める。

 僕が今一番怖いのは、それだ。

 だから、直也と桂、この際どっちでもいいから渉に選ばれて、渉の心を護ってくれたら…って思ってる。

 でも、そこまで考えてまた、『渉にひとりを選ぶことが出来るんだろうか』っていう無限ループに入ってしまう。

 …何にも起こらなきゃいいんだけど…。



                   ☆ .。.:*・゜



 終演後。
 舞台袖で渉は3年生全員とひとりひとり握手をしていた。

 先輩たちも本当に嬉しそうで、無茶した甲斐があったなあって思う。

 凪もしがみついて泣いてる。

 中1の頃から、さり気ない気配りは得意なクセに――だからこそ、中等部では副部長だったんだけど――いるのかいないのかわからないくらい大人しくて、あんなに感情を見せることってなかったのに、渉が来てから随分変わった。

 しかも…。

「里山先輩…」

「渉、本当にありがとう。最高の思い出を抱いて、卒業できるよ」

 凪ってば、里山先輩に肩を抱かれて、赤くなってるし。

 それにしてもこの2人、打楽器と弦楽器で全然接点なかっただろうに、どこでどう転んでああなったんだろ。

 ま、里山先輩は人を見る目はあるし、中等部部長の時にも僕たち後輩に細かく目を行き届かせてくれてたから、人目につかないところで一生懸命がんばってる凪のこと、ちゃんと見てたのかも知れないな。

「凪と、渉に会えて良かった」
「わああああ!」

 凪が飛び上がった。

 センパイ…。

「あはは、悪い悪い」

 ウソウソ、ちっとも悪いと思ってないくせに。

 こんなところで『マウストゥマウス』だなんて、ほんと、こんなキャラだとは思わなかったよ。

 凪を抱えて行ってしまった里山先輩を見送って、僕は渉の後ろに立った。

「和真」

 渉がにこっと笑う。よかった、そんなに疲れてないみたいだ。

「渉、お疲れさま」
「うん、和真も。それと、ありがとう」

 先にありがとうと言われてちょっと面食らう。さすが渉。素直で優しい。

「何言ってんの、それはこっちの台詞だろ? 僕さ、ここへ来てもう何回もステージ乗ったけど、こんなに鳥肌たったの初めてだった」
「お肌ブツブツ?」
「そう、ブツブツ」

 渉もまだちょっと高揚してると見えて、普段では言わないような冗談もスルッと飛び出してくる。

「あ、そうだ、和真。これ」

 渉が内ポケットから、手紙を取り出した。

「なに? 手紙?」
「うん、和真に渡してって頼まれたんだ」

 渉がくれるのかと思ったら、どうも違う誰かのよう。

「え? 誰から?」
「アニー」

 手紙が僕の手のひらに乗せられた。

「あ、兄ー?」

 なに、それ。
 渉にお兄さんいたっけ? いないよね。
 渉のお父さんに隠し子いたら知らないけど。


「えっとね。アーネスト・ハース」

 ああ、それならわかる。
 そうか、渉は小さいときから知ってるから、愛称で呼んでるんだ。

「ああ、なんだ。…で、誰に?」
「だから、和真にだよ」
「どうして僕?」

 わけわかんないし。

「さあ、読んでみればわかるんじゃない?」

 僕はイマイチよくわからなくて、手のひらの封筒をジッと見つめた。

「帰省してからでいいんじゃない? ゆっくり読むのは」
「…あ、うん、そうする」

 あの、アーネスト・ハースさんから僕へ手紙なんて。

 今すぐ開けてみたかったんだけど、それも怖くて、結局僕はその手紙を大切に、楽器ケースにしまい込んだ。


                     ☆★☆


 無茶を承知で曲目変更を決行して、いつにないテンションの高さで練習を続けてきた定演の本番。

 桂はコンサートマスターとして、精一杯やってきたから不安はない。

 舞台袖でスタンバイしている渉は、なんだか物思いに沈んでいるようで少し心配になったが、案の定、一旦音が流れ出すと彼は豹変した。

 完全にオーケストラの一部になりながらも、ソロとして誰よりも輝く。

 こんな演奏ができる高校1年生がいるなんて、きっと客席も度肝を抜かれてるだろうな…と思うとなんだか可笑しい。

 演奏に集中しながらも、渉の様子を間近で見つめて、桂はこれからもずっとこうありたいと願っていた。

 これから先、遠い将来まで、同じステージに立てるようになりたい。

 直也の将来のビジョンの詳細はわからない。

 ただ、夢はあるようだし、父親の跡を継ぐこともないと言っていた。
 いずれにせよ、音楽へは進まないと決めているようだ。

 ただ、だからといって自分の方が有利だとは絶対に言えない。

 桂は、ソロを弾ききったあと、曲が終わるまでの十数秒間、顧問をジッとみつめる渉に気がついていた。

 その眼差しの中にどんな思いがあったのかは、本人にしかわからないが、おそらく彼の中で一定のケリはついたのではないかと感じていた。

 これから先は、自分だけを見つめて欲しい。

 切実に、そう願った。


                    ☆ .。.:*・゜


「渉、さいこーにかっこよかった」

 頭を抱きかかえて撫でると、渉はくすぐったそうに小さく笑う。

「直也も桂も、練習の成果バッチリだったね。僕、すごく合わせやすかったよ」

 何よりの褒め言葉に勝手に頬が緩む。

 もちろん直也には自信があった。
 子供の頃から一生懸命練習して、父親が親友なのをいいことに、普通なら絶対叶いもしない、あの葵様――母曰く――のレッスンを何度も受けたのだ。

 そんじょそこらの同年代には絶対負けない自信があったが、それでも渉に褒められるのは格別だ。

 恋する相手だから…というだけでなく、音楽家としての高い資質を、この年齢にしてすでに周知の事実にしている彼だから。

「ね、2人とも、卒業したらどうするの?」

 渉が尋ねてきた。

「僕は一応国立の文系。できれば東大」

 どうしても叶えたい夢がある。
 そのためには学歴は高いに越したことはない。
 そこから先は自分の努力次第だが。

 幸いなことに、父親からは『跡は継がさない』と明言されている。

 やりたいのなら、自分が現役のうちに他の選挙区から出なさいとも言われた。

 だが、そんな気は毛頭無い。

「渉は?」
「やっぱり向こうへ帰って音楽院か?」

 そうなると、海を隔てて離ればなれになってしまう。
 自分の夢は、ここにいないと叶わないから。

 それを思うと気がふさぐが、だからと言って、渉を諦めるつもりはない。

 方法はいくらでもあるはずだから。

 だが、渉は黙ってしまった。
 ならば。

「一緒に東大、行く?」

 渉の成績ならどこの学部でも大丈夫だろう。

「おい、なんで直也と一緒だよ」

 横から桂が絡んできた。

「やだよ」 

 珍しく口をとがらせて渉が小さく言った。

「なんで?」
「僕、勉強嫌いだもん」

 それは聞き捨てならない。

「おい、渉」

 桂が凄んだ。

「な、なにっ?」

「勉強嫌いで、なんで前期期末も後期中間もダントツ1位なんだ?」

 前期中間こそ自分が1番で、渉は入院の影響だろう、8番という急降下だったが、その後は2回とも抜けなかった。 

 10点以上の差をつけられて、直也は現在2番に甘んじている。

「き、嫌いだけどやってるもん」

 プクッとふくれた様子が可愛いくて、ついふらふらと余計なことをしてしまいそうになったのを、直也はグッと堪えた。

 いつか渉が、この腕の中に収まってくれる日を夢見ながら。


                   ☆ .。.:*・゜


 年末年始。

 桂はオーストリアへ、直也は熊本へそれぞれ帰省していたが、お互いメールで頻繁にやりとりしていた。

 それはいつものことなのだが、今年は渉へのメールも頻繁にしている。

 内容は、他愛もないことばかりだが。

 明日は入寮日。

 2人は渉にメールをする。

『明日、話があるんだけど、何時頃来る?』

 この腕に渉を抱きたい。

 そう、願っていた。2人とも。

END

第8幕 Storm at early spring ~春待ちの季節』へ


☆ .。.:*・゜

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