第7幕「Crystal Snow〜六花の季節」

【1】





「渉、今日もコンチェルトの指導、やってみないか?」

 ゆうちゃんがホールの舞台袖で僕に声を掛けた。

「え? どうして…ですか?」
「この前、少し後ろで聞いてたんだ。ほら、アニーが来た日」

 え、あの時、ゆうちゃん聞いてたんだ。
 わあ…どうしよう…。

「ご、ごめんなさい…」
「ん? 何を謝ってるんだ?」

 ゆうちゃんがちょっと腰を落として僕の顔を覗き込む。

「だって、先生が指揮なのに、僕がこの前色々勝手に触ったところがあって…」
「何言ってるんだ」

 笑いながらゆうちゃんが僕を抱きしめた。

「これは渉のコンチェルトだぞ? 本来なら、僕にもどんどん注文をつけてしかるべきところなんだから、遠慮してないで自由にやればいい」

 ゆうちゃんが、僕を抱きしめたまま、背中を優しくトントンと叩いてくれて…。

「…ゆう…」

 僕がつい、『ゆうちゃん』と呼んでしまいそうになったとき。

「こら、何見てる」

 ゆうちゃんが辺りを見回して笑った。

 しまった、ここ、ホールだった…。

 周りにたくさんの視線を感じて、僕は慌ててゆうちゃんの腕から飛び出した。



 で、その後、ゆうちゃんに言われたとおり、僕は何回かコンチェルトの指導をして、それから本来のソリストに戻った。

 ゆうちゃんの凄いところは、僕があれだけ色々とコンチェルトの解釈を変えちゃったのに、それを完璧に踏襲して、さらに踏み込んでみんなに伝えてるところだ。

 僕にはあんな柔軟性、きっとない。

 そう、ここへ来て、ずっとゆうちゃんを見ていて思った。

 音楽の授業を何クラスも持って、中学2年3組の担任をして、その上で100人以上いる管弦楽部員一人一人に目を行き届かせて、時には優しく時には厳しく、それぞれの個性に合わせてゆうちゃんは細やかに生徒に接しているって。

 僕がここにいられる、あと2年と3ヶ月の間、出来る限りのことをゆうちゃんから学び取れたらいいなあって、ソリストの位置からゆうちゃんをこっそり見上げた。



                   ☆ .。.:*・゜



 12月24日。
 ついに管弦楽部最大の行事、定期演奏会の日がやってきた。

 演目は3曲。

 これは毎年のことなんだそうだけど、1曲目が中等部、2曲目が高等部、そして3曲目が選抜――つまりメインメンバーの演奏になる。

 僕がソロをするチェロコンチェルトは3曲目。

 コンチェルトをメインに据える演奏会は珍しいわけではないけれど、本流ではない。

 プロオケの場合は、ソリストがメインクラスの大物だったらコンチェルトを最後に持ってくる…って感じ。

 だから僕は、できれば真ん中が良かったんだけど、この曲はメインメンバーの曲になってるから、その点でどうしても最後に持ってくるしかなくて、ちょっと憂鬱。

 で、さらに僕は『もしかして、誰か来てるんじゃないだろうか』…っていう嫌な予感にさらに憂鬱になっている。

 誰か…っていうのは、もちろん僕の『関係者』。

 あ、ママの方のグランパとグランマは夏も聖陵祭も来てくれた。

 グランマはゆうちゃんが顧問になってからは結構聴きに来てるそうで、グランパはもう、『初代OB会長』ってことで、どんなに遠くへ出張に行ってても、管弦楽部の演奏会を欠かしたことはないんだ…って、自慢してた。

 でも、『今年はわたちゃんがいるから、いい席確保してもらってるのよ』…なんて、グランマ言ってたっけ。

 ともかく僕は、パパの方の『みんな』にはコンチェルトをやるっていうのを内緒にしてるから、できれば今回は来て欲しくないなあって思ってる。

 僕がコンチェルトやるなんてまだまだ早いって思うし、『渉はチェロに決めたんだ』って思われたくないっていうのもある。

 僕自身がまだ何もかもに納得していない――今日やる演奏の仕上がりとか…ではなくて――状態では、まだ誰にも聴いて欲しくないって思ってる。


 でも、こんなのがいつまで続くんだろうかって不安もある。

 高校3年間で、なんの答えも出せなかったら、その時僕はどうするんだろうって。

 ゆうちゃんみたいに、日本の音大行って教員免許とって、聖陵に来るってのもありかなあ。

 でも、僕の性格では教師なんて勤まりそうにないし…。

 そういえば、直也と桂はどうするんだろう。聞いたことないなあ。
 あれだけの実力なら、音大行ってプロの道…っていうのが順当だとは思うけど。

 和真は…。
 僕はアニーから手紙を預かった。
 定演が終わったら渡してって言われてる。

 中身は聞いてないけど、多分、卒業後のこと。
 だとしたら、和真はドイツへ行ってしまうかもしれない。

 ただ、和真自身、『まだ音楽でやっていけるのかどうか、決心がついてない』って言ってたけど。


 そういえば、英の音楽院の試験、どうなったんだろ。

 ま、英の実力なら落ちるってことは絶対ないから、心配することはないか…。

 って、今この現場ではどうでもいいことばっかり頭をグルグル駆け巡っていたんだけれど、休憩時間の終わりを告げるチャイムの音に、僕は気持ちを切り替えた。


 客電が落ち、静寂を取り戻したホールでチューニングが始まる。

 和真が出す正確無比な『A』を桂が正しく受け取り、そして全員へ伝える。

 そして、再び静寂…。

「行こうか、渉」

 ゆうちゃんが僕の肩を抱いて、優しく微笑む。

「はい。お願いします」

 左手に、楽器と弓をまとめて持って、僕は暗い舞台袖から眩しいステージへと歩み出す。

 迎えてくれるのは、割れんばかりの拍手。

 一つ息を整えて、ゆっくり深く客席に向かって頭を下げ、指揮台のゆうちゃん、そしてコンサートマスターの桂と握手を交わしてから、僕は静かに座る。

 最後の静寂が訪れる。

 この曲は、チェロのソロが出てくるまで少し時間があるので、僕はあまり間を置かずにゆうちゃんを見上げて頷く。

 僕に向けて、にこっと笑ったゆうちゃんは、桂とクラリネットの萩野先輩に目を配り、そしてタクトがおろされた。

 全3楽章、演奏時間はおよそ40分。

 僕たちのコンチェルトか始まった。


 クラリネットと低弦が静かに現れる。

 やがてファゴットやフルート・オーボエが加わり、第1、第2ヴァイオリンが加わると、オーケストラはまず最初の高みを目指す。

 そして、ひとしきり管弦がテーマを繰り広げた後、一旦引いた音の波の間から、僕が最初の音を出す。

 何もかもがひとつになる、心が掴まれる瞬間…!

 そこからのすべての時間を、僕は幸せの中で過ごした。
 音のうねり、リズムの躍動。
 何もかもが、僕の中に当たり前のように染みこんでくる。

 ずっとこの中にいたいと思ったけれど、でも、時間は歪むこともなく、音楽をエンドサインへと導いていく。

 どうして、幸せな時間はこんなに早いのかと思うほどに。


 やがて、一瞬引き潮のように遠ざかる音の中から、ソロのロングトーンが曲の終わりを予告するかのように静かに現れ、次第にテンションを上げていき…。

 最後の音を弾ききった僕の弓が空を切ってゆっくり降りる。

 オーケストラはあと数秒を駆け抜けていく。

 その時僕は、手を伸ばせば届くような距離にいるゆうちゃんが、オーケストラをゴールまで導く瞬間を見届ける。

 きっと、これが最初で最後。

 指揮者とソリストという立場でステージを踏むことは二度とない。

 僕はソリストの位置から見上げるゆうちゃんの姿を心に刻んで、終わりの時を待つ。


 そして最後の音が宙に吸い込まれて消えた瞬間。

 耳が痛くなるような拍手の嵐が僕を包んだ。

 その音に思わず身を竦ませてしまうと、指揮台を降りたゆうちゃんが、僕を抱きしめて、そして立たせてくれた。

 薄暗い客席に向かってまた深く頭を下げて、戻した視線に僕は驚く。

 満席の客席で、みんな、立ち上がって拍手を送ってくれている。

 思わずゆうちゃんを見てしまうと、ゆうちゃんはまた、満面の笑みで僕を抱きしめてくれた。

 そして、耳元で言ってくれたんだ。『よくやった』って。

 …ゆうちゃん、ありがとう。
 これで僕は、聞き分けの良い甥っ子に戻れるから。

 僕は、始まりの時と同じように、ゆうちゃん、桂と握手をして、それからみんなを振り返る。

 足を踏みならして僕を迎えてくれる笑顔・笑顔・笑顔。

 一番奥、ティンパニの向こうで里山先輩が立ち上がり、頭の上で、マレットを叩いてる。

 目が合うと、親指を立てて『Good Job!』って笑ってくれて、僕もつられて笑顔になる。

 そんなみんなに僕は客席と同じようにありがとうと頭を下げる。

 僕にこんなチャンスをくれて、本当に本当に、ありがとう…って。


 それからどれくらいなのかわからないほどのカーテンコールが続き…。

 最後に、夏のコンサートにも聖陵祭コンサートにもないことが、ひとつ行われる。

 それは、顧問であるゆうちゃんの挨拶。

 今年1年、支援してくれた父兄やOBへの感謝、それから来年また管弦楽部の生徒たちと精進していきたいって決意が、ゆうちゃんの、静かだけれどよく通る声で告げられる。

 そしてまた割れるような拍手の中、やっと定期演奏会が幕を閉じた。




 舞台袖で僕は3年生全員とひとりひとり握手をした。

 みんな、無理を承知で選曲を覆して本当に良かったって喜んでくれて、僕もちょっと涙がでちゃったり。

 そうそう、凪もしがみついて泣いてくれた。
 本当に嬉しかったって。

 そんな凪の肩を抱く人物が…。

「里山先輩…」
「渉、本当にありがとう。最高の思い出を抱いて、卒業できるよ」

 先輩は、少し前に大学の合格通知を手にしていた。

「凪と、渉に会えて良かった」

 そう言って先輩は…。

「わああああ!」

 凪が飛び上がった。

 すみませんが先輩…そういうことは2人きりの時に…。

「あはは、悪い悪い」

 なんて、ちっとも悪いと思ってない風で、里山先輩は凪を抱えて行ってしまった。

「…恐るべし、里山先輩。いくら薄暗い舞台袖だからって、マウストゥマウスなんてするかねえ」 

 いつの間にか後ろにいた和真が呆れた声で感心してる。

「和真」
「渉、お疲れさま」
「うん、和真も。それと、ありがとう」
「何言ってんの、それはこっちの台詞だろ? 僕さ、ここへ来てもう何回もステージ乗ったけど、こんなに鳥肌たったの初めてだった」
「お肌ブツブツ?」
「そう、ブツブツ」

 バカみたいな冗談でも笑いあえるくらい僕はまだ高揚してる。

「あ、そうだ、和真。これ」

 僕は管弦楽部用のスーツの内ポケットから、手紙を取り出した。

「なに? 手紙?」
「うん、和真に渡してって頼まれたんだ」
「え? 誰に?」
「アニー」

 預かっていた例の手紙を和真の手に載せる。

「あ、兄ー?」

 ええと、和真、ちょっと発音が違うよ。

「えっとね。アーネスト・ハース」
「ああ、なんだ。…で、誰に?」
「だから、和真にだよ」
「どうして僕?」
「さあ、読んでみればわかるんじゃない?」

 そう言うと、和真は手のひらの封筒をジッと見つめた。

「帰省してからでいいんじゃない? ゆっくり読むのは」
「…あ、うん、そうする」

 多分、和真、仰天するだろうなあ。

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マレット…ティンパニやマリンバを叩くバチ


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