幕間「僕だけの君でいて」





 それは、自分にしかわからない、微妙な変化だと桂は思った。

「ただいま」
「お帰り。間に合ったか? 晩飯」
「ああ、大丈夫だった」

 渉との最終合わせをする直也が、『今日は遅くなるかもしれないから』…と言っていたので、夕食は待たずに先に摂った。

 本当は、渉を待っていたかったのだが、それをすると渉がかえって気を遣うから、諦めた。

「どうだった、合わせ」
「もう、ばっちり」

 直也も自分同様、いつも前向きでネガティブな思考はほとんどない。
 だから今日の練習についての自己評価も『ばっちり』で。

 いや、直也の実力からすれば、本当に『ばっちり』だったのだろう。
 いつも通りに。

 だが、今夜はなんだか少し違う。

 そう…微妙に浮かれているような気がするのだ。

 それがいったい何なのか、少し嫌な予感がしたが、わざと考えないで寝ることにした。




 そして、その正体は、朝わかった。

「おはよう、渉」
「あ…おはよう…直也」

 いつものように挨拶を交わす2人の様子。
 そして、直也が渉を見つめる瞳。
 その視線に気がついて所在なげに目を伏せる渉。

 ――直也…動いたな…。

 おそらくは昨日、2人きりの練習の時に違いない。

 どこまでどうなったかはわからないが、告白したことは間違いないだろう。 

 もし渉が直也の気持ちを受け入れてしまっていたら…と、一瞬絶望的になったのだが、渉の様子からすると、戸惑いの方が多く感じられて、そのことがいくらかの慰めになった。

 いや、万が一、渉が直也に『Yes』と言ったとしても、ひっくり返してやるくらいの気持ちがなければ、恋なんてしない。

 まして自分は、『この子が欲しい』と切望したのだ。

 1日後れを取ったくらいで怯んではいられない。



 
「昨日、直也に何か言われたか?」

 練習のあと、ぼんやりしている渉に声を掛けた。
 言葉では無く、あからさまに動揺した様子が返事になった。

「直也に告白された?」
「桂…」
「違う?」

 出来るだけ静かに問うてみる。 
 咎めているのではないのだから。


「…違わ…ない」

 切れ切れの小さな声と同時に渉が固く目を閉じた。
 その瞬間、何かが弾けた。

「渉っ」

 気がつけばその華奢な身体をきつく抱き込んで、思いの丈をぶつけていた。

「俺、渉を誰にも渡したくないっ。直也にもっ、誰にもっ」

 このまま抱き潰して身のうちに取り込んでしまいたいくらいに。

「好きなんだ、渉が」

 一度口にしてしまったら、もう止まらなかった。

「ずっと渉のことを見てきた。想ってきた。好きになるのをとめられなかった」

 答はなかった。
 自分があまりに強く抱きしめすぎて、本当に、危うく壊してしまうところだったのだ。 


「…ごめんな、苦しい思いさせて…」
「ううん、平気…」

 やっと落ち着いた息を取り戻した渉が、やっぱり愛おしくて仕方がない。

『いつから』と問われ、正直に答えた。
 そして、それは直也も同じなのだと。

 おそらく、自分と直也がお互いの気持ちを知っているとは思っていなかったのだろう。

 渉の見開いた目がそれを物語っている。


「直也に告白されて、返事、した?」

 怖いけれど、どうしても、聞いておかなくてはいけないことを口にした。

「…ううん、して、ない」
「『Yes』も、『No』も?」
「…うん」
「そっか…」

 間に合ったのだ。
 思わず『よかった』と口からこぼれ落ちた。

「…渉は…嫌…か? 俺にこんなこと言われて、迷惑、か?」
「ううんっ、そんなこと、ないよっ」 

 即答だった。

 今はそれだけでも飛び上がりたいほど嬉しい。
 だから…。

「急がないから、ゆっくり考えてくれないか? 俺のこと。いつか、渉も俺のことが好きになってくれたらな…って思ってる。そんな日が来るって、信じてる」

 渉の瞳を捉えて告げる。
 渉もまた、射抜かれたように動かない。


「なあ、もう1回、抱きしめていいか?」

 身体が欲しいわけではない。
 いや、欲しいのだが、それよりもっと大切なことがある。

 心ごと、抱きしめたい。

 その想いを込めて呟けば、渉は戸惑いながらも小さく頷いてくれた。

「渉…」

 自分でも可笑しくなるくらい、呼んだ名前に切なさが宿る。

 今度は柔らかく抱きしめて、柔らかい頬に少し、頬を合わせてみた。
 ふわっと甘い香りがよぎる。

「…やば…」

 身体をくすぐる芳香に、青春真っ只中の身体は素直に反応してしまった。
 仕方なく、大きく息を吐く。

「…あぶね…」

 身体だけが欲しいわけではないのに、危うくケダモノになるところだった。

 腕の中の渉が、少し不安そうに見上げてきた。

 理性のありったけを総動員して、渉に回していた腕を、どうにか緩めてもう一度息を吐く。

「なんか、このまま離せなくなりそうで、怖い」

 渉に聞かせたいわけではなかったけれど、思わず呟いてしまった。

 もちろん、渉から返事があろうはずはなく…。

 その後は2人で、ほとんど言葉を交わすことなく、寮への道をゆっくりと上った。



                   ☆ .。.:*・゜



「直也のことは大好きだよ」

 好きになって欲しい…と告げると、渉はこんな可愛いことを言ってくれた。

 思わず笑いが漏れる。

 けれど、そうではないことも直也はよくわかっている。

「うん、知ってる。でも、渉の『好き』は、僕の『好き』とは多分違うと思うよ」

 渉の瞳が大きく揺れた。

「僕の『好き』は、『愛してる』って意味だから」

 その言葉は、渉にある程度の威力を持って届いたようだ。
 愛らしい顔が驚いたように見上げてくるから。

 何か言いたげな、淡い桃色をした薄い唇がほんの小さく開く。

 魅入られて、吸い込まれるように顔を寄せ、甘い息がふわっと鼻先をかすめたとき…。

 直也はキュッと唇を噛んだ。

「フェア…じゃないな…」

 キスも、それ以上のことも、今ここでしてしまいたいくらい、身体は熱くなっている。

 けれど、無理強いはしないと約束した。

 渉の気持ちが熟して、想いが通じ合ったその時に、柔らかい唇に初めて触れて良いのだと。

「帰ろうか。和真が心配するといけないから」

 直也は渉をそっと解放した。

「行こう」
「…うん」

 いつか繋いでみたいと思う手も、今夜もまだ、伸ばす勇気はでなかった。



 
 翌朝。
 いつもと同じ挨拶を交わし、いつもと同じように桂や友人たちとじゃれる。

 その隙をついて、渉の白い手にそっと触れる。

 目が合えば、嬉しくて微笑みも一層甘くなる。

 そして、それに耐えられないのか、頬を赤くして俯いてしまう渉。

 目を離せない可愛らしさに、心まで熱くなる。

 そうした浮かれた気分のまま、ふと転じた視線の先に、桂の瞳があった。

 明らかに、何かを感じているであろう、力強い瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。

 ――桂…気づいたな。

 けれどお互い何も言わなかった。

 全てはこれから…だから。


END

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