第2幕「Audition〜緑の季節」

【1】





 結局、入学2日目に僕のところにやってきたオーディション用の楽譜は、『J.S.BACH 無伴奏チェロ組曲第1番 プレリュード』。

 つまり、チェロでオーディションを受けなさいという、ゆうちゃんの意志だ。

 どうしてか…なんてことは、特に考えないことにした。
 だって、自分で決められなかったことなんだから。
 ゆうちゃんの言うとおりにしていれば、それで良いんだと思った。


 それにしても、この選曲は…。

 『J.S.BACH 無伴奏チェロ組曲第1番 プレリュード』は、チェロやクラシック音楽に興味の無い人でも、おそらく一度は耳にしたことがあるんじゃないかと思えるほど有名な曲。

 日本のTVでもしょっちゅうCMに使われてるって、和真が言ってた。
 で、『こりゃまたベタな選曲だなあ』とも。

 ただ、基礎技術が如実に出てしまうから、基礎力を測るには良い曲なのかも知れないと思う。

 そう。優劣がつけやすいのかも…。

 とりあえず、この曲は今すぐでも暗譜で弾ける。

 オーディションは1週間後なんだけど、僕は今からオーディションでも大丈夫。すでに身体に染みついてる曲だから。

 裏を返せば、今さら練習しても、良くも悪くもならないってこと。
 僕なりの演奏しかできない。

 練習することがあるとすれば、曲の練習ではなくて、基礎練習…くらい。



 で、去年次席で今年は首席を狙うって豪語してる3人――和真と直也と桂――は、オーディションの楽譜を手にした瞬間から、猛然と練習を始めた。

 僕はと言うと…。

 ゆうちゃんがどこからかチェロを入手してきてくれたので、それを抱えて誰かの練習を見学してるだけ。

 和真のオーボエパートは、なんと課題がモーツアルトのオーボエ協奏曲!

 これ、高校生に吹けるの?ってくらい難曲なんだけど、なんと和真は吹いている。

 もちろん楽々と…とは言わないけど、聖陵で首席になろうと思ったら、これだけ出来ないといけないってのは、ほんと大変なことだと思う。


「ね、渉」
「なに?」

 リードから口を離し、和真がやけに真剣な顔で僕を見る。

「何かアドバイス、ない?」

 僕が?

「えっと…」

「何でも良いんだ。渉もわかってると思うけど、自分で自分のクセってわからないじゃない? だから客観的に意見を聞きたいんだ」

 ああ、そういうことなら…。

「あの、さ」
「うん」
「ここのとこのパッセージだけど…」

 僕が指さした先に並ぶ音符を和真が覗き込む。

「アーティキュレーションに偏りが出てると思うんだ」
「うん」
「でね…」

 どうしよう…言葉では説明できない…。

 思わず宙で指を動かした僕を見て、和真は『はい』と自分の楽器を手渡してきた。

「え…ええと」

 いいの?と聞けば、もちろん…と返ってきた。

 特にオーボエは、その吹き口であるリードが繊細だから、他人に触らせるのをみんな嫌がるんだけど…。


「じゃあ、ちょっと」

 ともかく口で説明出来ない僕は、やってみせるしかないと和真の楽器を手に取った。

 そしてリードを軽く咥えて…。


「あ。」
「なに? どした?」
「和真、上手にリード削れてるね」

 オーボエのリードは芦でできている。そう、植物だ。
 もちろん完成形の市販品もあるんだけど、上手い奏者はみんな、自分で芦を削って好みのものを作る。


「渉…咥えただけでわかるの?」

 和真が目を丸くした。

「あ、うん、だいたい…だけど」

 とりあえず僕は、もう一度咥え直して、楽譜をざっと吹いてみる。

 上手には吹けないけど、多分、アーティキュレーションの偏りは修正出来てたと思うんだけど…。

 って、あれ? 和真?

「渉…」
「あ、あの〜」
「…渉がオーボエじゃなくて、よかった〜!」

 ガシッとしがみついてくる和真を、片手に楽器を持ってる僕は受け止めきれずに、盛大によろめく。

「うわあ、ごめん!」

 よろめいた僕を今度は捕まえてくれて、和真が『やれやれ…』とため息をついた。

「渉がオーボエだったら、僕、首席になれないよ」

 え?

「どして?」

 今のはただ鳴らしただけであって、音楽なんかじゃない。

「少なくとも、今渉が演奏した部分は完璧だったと僕は思う。渉には物足らないんだと思うけど、僕らから見れば、聖陵のレベルを遥かに超えてるよ」

 これで?

 去年の夏のコンサートを聴いたけど、聖陵のレベルはもっと高いと思う。
 こんなので『遥かに超えてる』なんて言われるレベルじゃなかった…けど。


「ふふっ」

 和真が不敵に笑った。

「僕さ、渉の演奏をほんとに楽しみにしてたんだけど、もう、ワクワク通り越してドキドキして来ちゃった。これから3年間渉と一緒に音楽できるなんて、最高! めっちゃハッピー!」

 …そう言ってくれるのは本当に嬉しいけど…。

「何でって顔してるね」
「うん」

 僕は素直に認めた。

「ま、今はそれでいいんじゃない?」
「どういう、こと?」
「迷う時間はたっぷりあるし」

 迷う時間…。

「だってまだ僕たち15歳じゃない? まだまだいろんなことに迷ったり、寄り道したりしたいもん」

 …それは確かにそうかもしれない。

 なんだか周りが大人ばっかりだったから、なんとなく先を急がなくちゃ…みたいに感じてたことは、あったような気も…。

 あ、それはそうと。

「あの、さ」
「うん?」
「僕、16歳」
「えっ?! なに?! 渉、まさか留年してるの!?」

 和真がただでさえくりくりした瞳を更にでっかくした。

「ち、違う違う。昨日、誕生日だったんだ」


 僕の誕生日は悟くんと一緒。

 今年もメールで――昨日、パソコンルームの使い方教えてもらったから――『おめでとう』ってやりとりはした。
 プレゼントはまた、夏休みに会った時…なんだけど。


 ゆうちゃんは、昨日チェロを渡してくれた時にこっそりキーホルダーをくれた。

 軽いんだけど、めちゃくちゃお洒落なデザイン。
 本体が、ト音記号のカッコをしてるんだ。

 部屋の鍵、郵便受けの鍵、教室のロッカーの鍵、音楽ホールのロッカーの鍵…と、管理しなくちゃいけない鍵が凄く多くて困ってたんだけど、すっかり収まって、今は僕のブレザーのポケットの中。

 毎年素敵なプレゼントを送ってくれたゆうちゃんだけど、初めて当日に直接プレゼントがもらえて、凄く嬉しくて、やっぱりここに来てよかったなあ…なんてしみじみ思ったんだけど、チェロを見てまたちょっと落ち込んだりもして。


「ええ〜! 昨日誕生日だったんだ? 言ってくれればいいのに〜!」

 や、別にわざわざ言うことでも…。

「そっか〜、渉、誕生日早いんだ。ってことは、学年の誰よりも兄貴…」

 そこまで言って、和真がちらりと僕を見る。

 ええと…。

「和真、もしかして今、『一番オコサマのくせに…』とか思ったんじゃない?」

 僕がジロッと見返すと…。

「滅相もない! これっっっっぽっちも思ってもいませんっ、渉兄貴!」
「あ〜! やっぱり思ってるんだ〜!!」
「きゃ〜、助けて〜」

 こんな風に、僕と和真はほんの数日ですっかり打ち解けて。

 ほんと、ここへ来てよかった。


「あ、和真の誕生日はいつ?」

 日本へ来て最初の友達。その日が来たら、ちゃんとお祝いしたい。

「僕はね、すごくロマンチックな日だよ」

 え?

「いついつ?」
「7月7日…なんだけど、渉はその風習知ってる?」
「もちろん、七夕だよね?」
「あ、知ってるんだ」
「うん。うちはどこに居てもそう言う年中行事は必ずやったよ」


 特にパパがこだわったんだ。
 世界のどこで何をしていても、日本人であることを忘れないようにって。

「そっか、七夕か〜。覚えやすいし、いいね」
「まあね」

 和真がぺろっと舌を出した。

 それから僕は、聖陵の裏山に短冊があふれる7月のことなんかを和真に聞いて、葵ちゃんたちが言ってたとおり、なんだか面白そうな学校だなって、またちょっと、気分が浮上したんだ。


「渉、なんだかいい顔になってきた」
「え、そう?」

 そりゃあ、緊張もしてたし…。

「僕たちの3年間は始まったばかりだ。 あっという間かも知れないけど、僕は渉と楽しい高校生活を送りたいなと思ってる。勉強も、部活も」

「うん、僕も、和真と楽しい毎日にしたいと、思う」

 目的はゆうちゃんだったけど、和真に会えたし、管弦楽部も悪くないかなあ…なんて思い始めてる。


「色々悩むと思うけどさ、きっといつか、渉の音も見つかるよ」

 え…?

「…そう、かな」

 そんな日が、来るんだろうか。

「うん。さて、練習練習。渉、聞いててね」
「あ、うん」

 そうして和真はさっきよりもっと楽しそうに、難曲に挑んでいった。



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パッセージ…メロディラインではない、経過的な音の一節。
アーティキュレーション…音の区切りやつなぎ方のこと。


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