花の遺言
君の愛を奏でて3〜番外編
一本の国際電話が、ウィーンに住む栗山重紀のもとにかかってきたのは、葵が二十歳の誕生日を迎える2日前だった。 「遺言書…ですか?」 『はい。葵くんが二十歳になったら、重紀さんにお渡しするようにと、綾乃さんから預かっておりました』 電話の主は、京都に住む弁護士の佐々木という人物。 重紀の実家である個人総合病院の顧問弁護士を長らく務めていて、重紀とも旧知の仲だ。 葵の亡き母、綾乃の遺言書を預かっているという。 初めて聞く話だった。 「それは、葵に渡すわけにはいかないのでしょうか?」 わざわざ二十歳になるのを待って…ということなら、葵が受け取ってもいいのではないか…と考えたのだが。 『いえ、遺言をお預かりした者としましては、故人のご意向に添わねばなりません。綾乃さんは、重紀さんに…と、書き遺しておられます』 「…そうですか」 ならば、自分が受け取るのが綾乃の遺志を汲むことになる。 二十歳――つまり葵が成人するのを待って、綾乃が自分に伝えたかったこととはいったい何なのか。 「それでは、すぐいただいた方がいいですね」 『いえ、私は職務上内容を存じ上げていますので申し上げますが、お急ぎになることはないと思います』 「…え? そうなんですか?」 二十歳の誕生日を指定しているからには、その日に開封しないといけないのかと思っていたのだが。 『大切なものですので、ご郵送と言うわけにもいきません。重紀さんのご指定で、どなたかにお預け出来ればそれに越したことはないのですが…』 つまり、信頼のおける人物に…と言うことだ。 ならば、打ってつけなのがいる。 「葵が、夏休み中こちらへ来る予定なんですが…」 綾乃の遺言を重紀の元に運ぶのに、これ以上の人間はいない。 『ああ、それでは、私が東京まで出向きまして、直接葵さんにお預けしましょう』 「いや、それは大変なお手数になりますから…」 義姉にでも、東京まで行ってもらえば済むことだと言おうとしたが、意外な返答があった。 『いえ、実は明後日の葵くんのデビューリサイタルのチケットを持ってましてね』 わずかに弾んだ声が、いつも冷静沈着な佐々木氏らしくなくて、重紀は少し可笑しくなる。 『本当に立派に成長されて、綾乃さんも喜んでおられることと思います』 「…はい、私もそう思います」 綾乃を見送った日、葵を必ず、自分を越えるフルーティストにしてみせると誓ったことは、いずれ遠くない日に達成されるに違いない。 葵は二十歳になる明後日、クラシック音楽の世界に正式にデビューをする。 国際コンクールでの優勝や、高校時代にもその生い立ちが取り沙汰された所為か、注目度は高く、先にデビューをしていた兄・守の人気もあって、デビューリサイタルのチケットは即日完売。 デビューアルバムも、発売は明後日だがすでに予約は好調で、おそらく守に続いてクラシック部門でいきなり1位になることが予想されている。 聴きに行ってやりたかったのだが、こちらでのスケジュールがどうしても動かせなくて、電話で『行けなくてごめんな、がんばれよ』と告げると、『大丈夫。ばっちりだから』と明るい声が返ってきた。 本来ならば伴奏を務めるはずであった悟の病があり、一時は葵の方こそが練習もままならないほど憔悴していた事を思えば、よくここまで来れたと感慨も深い。 だが本当の勝負はこれからで、この先もできる限りの手助けをしてやろうと決めている。 「それでは、よろしくお願いいたします」 いつも職務の外でも何くれとなく気遣いをしてくれる佐々木氏に改めて礼を言い、遠距離のラインは切れた。 ☆ .。.:*・゜ 「あ、これ。弁護士の佐々木さんから預かったの、持ってきたよ。大切なものみたいだから、緊張しちゃった」 大学が夏休みに入り、葵がウィーンへやって来た。 こちらでのデビューに備えてプチリサイタルを行うことが目的だが、9月には全国5ヶ所でのリサイタルが予定されているから、そのためのレッスンもある。 悟は、定期検診と師匠から言いつかった『代振り』*が終わり次第、後を追ってくる予定だ。 「ああ、ありがとう」 遺言だと聞いていたから、封筒だけかと思っていたら、小ぶりな包みも一緒だった。 もしかすると、遺品…だろうかと、胸が波打つ。 「葵、疲れたやろ。お茶飲んだら、ちょっと寝たらどない?」 すっかり大きくなったお腹を抱えて、由紀が湯のみを差しだした。 「あ、おおきに」 栗山家はウィーンにあるが、家の中は『まるごと京都』だ。 お客がいない時には、言葉も食文化も何もかもが京都で、葵はいつもほっこりと気分を和ませている。 久しぶりに会って、話を弾ませている由紀と葵の横で、重紀は受け取った封筒の封を切った。 そこには、懐かしい綾乃の美しい筆文字で、綾乃の想いが綴られていた。 葵が二十歳になった時に重紀が開封して、葵に渡すかどうか判断して欲しいとされていたそれには、葵の父親――赤坂良昭のことが書かれていた。 2人の出会いと別れ。更にはあの忌まわしい、葵が誘拐された件の真相――綾乃はやはり、すべてを知っていた――そして、『生きている間に話してあげられなくてごめんなさい。けれど決して会いに行ってはいけません』と…。 そして、包みの中身は、どれだけ探しても出てこなかった、綾乃の一番のお気に入りだった、四月…菜の花の花かんざしと、古びたカセットテープとCDだった。 テープの表には、モーツァルト:フルートとハープのための協奏曲と書かれているだけ…だが。 重紀にはわかった。 おそらくこれは、赤坂良昭が指揮をしている演奏に違いない…と。 そしてCDには付箋が貼られていて、『カセットテープの劣化が懸念されましたので、出過ぎた真似で申し訳ありませんが、CDに焼き直しておきました。佐々木』と書かれている。 出過ぎた真似などと、とんでもないことで、本当にありがたい気遣いだ。 「せんせ?」 箱の中身を凝視したまま身じろぎもしない重紀を不思議に思ったのか、葵が遠慮がちに声を掛けてきた。 「…ああ…。これ、見てみ」 差し出された箱を受け取り、中を見た葵は、目を見開いた。 「…これ…」 「……いやぁ、これ四月の花かんざしやわ…」 横から覗いた由紀が声を上げた。 そして小さく息を飲んだ。 「もしかしてこれ、綾菊姉さんの…」 葵が、弾かれたように顔を上げて、重紀を見つめる。 大きく目を瞠って答えを求めるように見つめてくる葵に、重紀は頷いてみせた。 「……母さん…」 渡された花かんざしをそっと抱いて、葵が小さく母を呼ぶ。 CDを再生してみると、音楽番組をエアチェックしたものだった。 演奏されたのは、葵がまだ綾乃のお腹の中にいた頃で、指揮は重紀の直感通り、赤坂良昭で。 けれど、驚くべき偶然があった。 フルートの独奏は、重紀を音楽院の教授に招聘した恩師で、ハープの独奏は、昇の生母だったのだ。 きっと綾乃はそのことを知らなかっただろう。 けれど、その頃からずっと、『縁』と『絆』は繋がっていたに違いない。 母がずっと守り続けてきた想いを抱きしめる葵を、重紀と由紀が、そっと見守っていた。 ☆ .。.:*・゜ 由紀が栗山先生のところにお嫁に来て1年ちょっとが経った。 お腹の中には新しい命が宿っていて、あと1ヶ月と少しで生まれてくる。 ほんと、不思議で幸せな感じ。 先生と由紀の子供に会えるなんて。 「だいぶ大きくなったなあ」 そう言えばお義姉さんも、最後の2ヶ月くらいで急にお腹が目立ってきたっけ。 「よう暴れるねん。ぼこぼこ蹴ってきて痛いくらいやで」 「元気でええやん。男の子と違う?」 渉もお腹の中では相当暴れてたし。 「さあなあ。性別は聞いてへんねん」 「そやな、楽しみにとっといてもええな」 渉も、生まれてくるまで性別は聞かずにおかれていたんだ。 けれど、何故か家族全員が『きっと、男の子だって』って、何の根拠もなく決めてかかっていたのが可笑しかったっけ。 「でもな、名前は決めてるんやで」 「あ、そうなんや。なんて名前?」 「男でも女でも、桂(かつら)…てつけよって」 「桂…か。ええ名前やなあ。もしかして桂離宮から?」 「そう。京都らしいやろ? この子はもしかしたら、ずっとこっちで生きていくかも知れん。けど、自分のルーツは京都にあるっていうこと、ちゃんと覚えておいて欲しいから」 そっとお腹を撫でる由紀は、もう『お母さん』の顔をしていて、ほんと、女の人って強いなって思う。 それは、母さんも、お母さんも、お義姉さんも同じで。 「渉くん、元気? そろそろ首が座る頃やろか」 「ん〜、それがなあ、しょっちゅう熱出してるんや。生後3ヶ月ですでに入院2回やもんなあ。それでお義姉さんちょっとヘタばってしもて、今はうちのお母さんと祐介のお母さんとお義姉さんの3人体制で育児中。守も悟も昇も僕も、頑張って手伝ってはいるんやけど、やっぱり女の人みたいにはいかへんしなあ」 少し小さめで生まれてきた渉だけれど、誕生時には異常はなくて、無事生まれてきたことをみんなで喜んだんだけれど、どうも呼吸器系が弱いみたいで、とにかく肺炎にしないようにと気をつけているところなんだ。 「あらま、どうしたんやろ。心配やなあ。大事にならんかったらええのやけど」 「そうや、3日前に撮った写真見る?」 表情を曇らせた、出産が近い由紀をこれ以上不安にさせないように、僕は殊更明るい声でデジカメを取り出した。 「わあ、見る見る」 「ほら、ちょうど起きてたんやけど、なんか最近、しっかりこっち見るようになってきたんや」 お母さんに聞いたところによると、3ヶ月くらいからちゃんとピントが合うようになってくるらしくて、そう言われてみればじっと見てることが多くなってきたなあって、守とも話してるんだ。 「わ〜。生まれたての時よりまた一段と葵に似てきたなあ」 「そやろ? もう分身みたいでめちゃめちゃ可愛いで」 そう、渉は何故か僕によく似てるんだ。 僕は母さん似だから、不思議な話なんだけど、ともかくこれだけ似てたらもう――似てなくても結局一緒だろうけど――めちゃくちゃ可愛いくて仕方がない。 「叔父バカになりそうやなあ、葵」 「なりそう…と違うて、すでにウルトラ叔父バカ。僕だけやなくて、悟も昇も、おもちゃとか服とか、ちょっと可愛いなと思たらすぐ買ってきちゃうから、渉のベビー箪笥はすでに満タンで溢れてるし」 そう言えばお父さんってばこの前、レゴのアメリカ限定セットを買って来ちゃって、お母さんから『いくら何でも早すぎるわよ』って笑われてたっけ。 守だけは、『俺がキビシく育てないと、甘やかされ放題で我が儘坊主になる!』って宣言してるけど、生後3ヶ月の我が子に『こいつ、リズム感抜群だな』とか、親ばか丸出しなんだけど。 「ふふっ、溺愛やなあ」 由紀が嬉しそうに言った。 5年とちょっと前、聖陵へ入学した頃の僕はひとりの血縁もなくて、さすがにちょっと辛かった。 なのに今は、血の繋がった甥っ子まで出来て、ウソみたいに幸せで…。 そして、僕と母さんをずっと護ってくれていた先生と、ずっと側にいてくれた由紀が、こうして幸せになって、新しい命にももうすぐ会える。 「由紀、不安とか心配事とかない?」 「うん、平気やで。音楽院の先生も奥様たちも、 みんな優しいし、色々アドバイスして面倒みてくれはるし、何よりも旦那様は優しいし〜」 「はいはい、ゴチソウサマ」 僕が東京にいる間に、いつの間にか愛を育てていた先生と由紀。 気持ちの変化がいつどんな風に訪れたのかは、僕にはわからないことなんだけれど、ともかくこんなに嬉しいことはなくて、きっと母さんも喜んでるだろうなあ…って思うんだ。 由紀の告白によると、『うちが押して押して押しまくったんやで』ってことらしいんだけど。 「きゃっ、また蹴られたわ」 お腹をさすって、由紀が笑う。 「生まれる頃にまた来られたらええのやけどなあ…」 「予定日は来月の初旬やし、大学始まってるのと違うの?」 「始まるのは20日からなんやけど、9月は5ヶ所でリサイタルやねん」 「すっかり売れっ子やな」 茶化すように言う由紀に、僕はちょっと気持ちを引き締める。 「うん。周りの人たちが万全の体制でバックアップしてくれてるからなあ。だから僕も精一杯やらんとあかんと思てる」 そう。この業界で『大物』と呼ばれているお父さんとお母さんを持って、僕のスタートは最初から本当に恵まれている。 だからこそ、環境に甘えないようにしなくちゃ…って、思ってるんだ。 由紀が頷いて、そして柔らかく微笑んだ。 「また、DVD送ってな」 「うん。もちろんやで」 そうそう、福岡でのリサイタルには、熊本から隆也が来てくれることになってる。 メールでのやり取りはしょっちゅうだけど、会うのは隆也が転校して以来だから、もうめちゃめちゃ楽しみなんだ。 しかも奥さん連れてくるって言ってたし。 入籍したばかりの隆也の奥さんは、転校先の高校の同級生で、高3の終わり頃に告白されて付き合い始めて、今も同じ国立大学に通ってる学生夫婦なんだ。 でもって、隆也も来年の2月頃に、パパになる。 去年の秋、守が結婚するって電話で報告したときには、そりゃあ驚いてたけど――しかも相手が祐介のお姉さんだし――ものすごく喜んで…。 そして、本当に、本当に、ホッとしたみたいだった。 4月に渉が生まれて、来月には『桂くんか桂ちゃん』が誕生して、同じ年度内に隆也のところにも新しい命がやってくる。 偶然…なんだろうけど、偶然にしても出来すぎって気がするよね…って、悟と話してたんだけど。 「うちの子、渉くんと同い年やなあ。仲良うなれたらええのやけど、ウィーンと東京じゃちょっと離れすぎやなあ」 「そやなあ」 東京とウィーンと熊本か…。ほんと、遠いよなあ。 でも、守はいつか、音楽活動の基盤をヨーロッパに移すことを考えているから、もしかしたら、 栗山家との繋がりは深くなるかもしれないけれど。 僕が日本へ帰る頃、渉はきっとまた少し大きくなってるに違いない。 早く、笑ってくれる日が来ないかな…とか、ハイハイ始めるのいつ頃かな…とか、楽しみがいっぱいでうずうずしてしまう。 今は少し病気がちだけれど、僕の母さんも、渉のことを見守ってくれてるに違いないから、きっと、大丈夫。 そうだよね、母さん。 呼びかけると、花かんざしの黄色い房が、そっと揺れたような気がした。 |
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関連のお話は君愛1『花かんざし、揺れて』と『埋み火〜冬の虹』です。
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*『代振り』…本番指揮者の代理のこと。
『下振り』という言葉もありますが、『下振り』は『練習指揮者』を指すことが多く、
『代振り』はあくまでも『代理』…でした。
私がいたオケでは(笑)