君の愛を奏でて3
『浅井先生は今日も大変』
〜前編:ゆうちゃんは今日も大変〜
大学2年の秋の事だった。 姉のさやかから、大事な話があるから帰ってこいと言われ、大学近くのひとり暮らしのマンションから1泊の予定で戻ってみれば、とんでもない事が待ち受けていた。 「子供ができたの」 まるで、明日の天気の話でもするような軽やかさで、さやかは告げた。 「でもね。結婚する気は無いの。 もちろん相手にはちゃんと話はするけれど、1人で育てたいと思ってるから、お父さんにもお母さんにも祐介にも、迷惑かけると思うけど、頑張るから協力お願いしたいなあって」 寝耳に水とは、まさにこのことだろう。 あまりの出来事に、両親も祐介も、何も言えずにただ呆然とすることしばし。 しかし、こんな時に1番強いのはやはり母親で、最初に話を切り出した。 「あのね、さやか」 「うん」 「あなた、ずっと結婚する気はないって言ってたから、私たちも諦めてはいたのよ」 「うん」 「だからね、子供が出来たのはとても嬉しいし、あなたに言われなくても、私たちは協力して一緒に育てて行きたいと思ってるわ。でもね…」 「うん」 「子供ができても、それでも結婚しないって理由と、相手の方のことはきちんと話して欲しいわけよ」 その通りだ…と、父親と祐介は頷くばかりなのだが。 「まさか姉貴…不倫…とか」 うっかり口にしてしまった瞬間、父親が手にして固まったままだった湯飲みを落とした。 「さ、さやか…っ」 「え〜! もうっ、祐介のばかっ、何言ってんのよっ。違うってばっ」 思いっきり否定されて、ホッとしたのも束の間。 「相手は9才下で、まだ大学生なのよ」 ひっくり返った湯飲みの始末をしていた母親が、『大学生?!』と、素っ頓狂な声を上げた。 「ちょっと…それって…僕より一つ上なだけってこと?」 「あ、そうなるわね。大学3年だから」 ――どこでひっかけたんだよ、もう〜。 まさかさやかが年下を引っ掛けるとは夢にも思わなかった。 男よりも男前と言われる、バリバリキャリアなさやかが万一恋愛をするとしたら、ずっと年上のオジサマに違いない…と勝手に思っていただけに。 ――いや、年下でなかっただけまだマシか。年下の『義兄』なんてちょっとヤだし。 「で、相手は、知ってるの…か? その、子供のこと…は」 やっと父親がしどろもどろに口をきいた。 「ううん。まだ話してないの。もちろん知らせるつもりだけれど、それより先にこっちで話を固めておかないとね」 らしい…と言えばそれまでだが、それでも祐介は納得がいかなかった。 「でもさ、本当にそれでいいのか? それって、葵と同じになるじゃないか」 「…え?」 「出来ることなら、親は揃ってる方がいいんじゃないの。葵が片親で悲しい思いしたの、知ってるだろ」 「…祐介…」 虚を突かれて言葉をなくすさやかの隣で、父親が激しく頷いている。 「まあ、相手次第ではあるけれどさ」 おそらく――情けない話だが――いない方がいい親というのも確かに存在はするだろう。 けれど、さやかがそんな相手と恋愛するとは思えなくて、気は揉めるばかりだ。 「…確かにそうね。ちゃんと話をするわ。 でもね、彼の『これから』を縛りたくないのよね…」 少し遠い目でそう言ったさやかに、そこにちゃんと愛があるのが見えて、少しホッとした。 それは、父親も母親も同じだったようで、母親はさやかに向き直ってはっきりと言った。 「あなたももう分別のある歳なんだから、きちんと話はつけなさい。ただ、子供のことは大事にして欲しいの。少なくとも私たちは、生まれてくるのが嬉しいんだから」 「…うん、ありがと…」 少ししんみりと俯いたさやかに、ようやく父親がまともに口を開いた。 「で、いつ生まれてくるんだ?」 「ええと、来年の四月の初め頃って」 「男の子か? 女の子か?」 「まだ、わかるわけないじゃない。出来たてなのよ〜」 「そうか…。まあ、いずれにしてもまずピアノをさせて、それから何か楽器を…」 聖陵学院管弦楽部第1期生にしてOB会の会長としては、何がなんでも孫に楽器を…と今から息巻く父親に、さやかが少し呆れて返す。 「はいはい。それはお任せしますから」 とりあえず、相手がどうあれ、最終的には浅井家が一致団結して生まれて来る子供を守っていかねばならないと、この時誰もが決意していた。 「あら、お父さん。そろそろ用意しなくちゃ間に合いませんよ」 「あ、ああ、そうだったな」 「今から出かけるの?」 「相変わらず忙しいんだな」 あたふたと立ち上がった父親に声をかけると、上機嫌で応えがあった。 「ああ、守くんのデビューアルバムがクラシック部門で1位になっただろ? OB会主催で祝勝会兼プチコンサートを企画してるんだ。院長も絡んでるからな、ちょっと気合いが入ってるってわけだ」 葵の兄、守は3月にデビューを果たし、その実力とルックスで一躍時の人となった。 けれど、だからといって普段の本人に何の変化があったわけでもなく、祐介にもとっても気の置けない大切な先輩であることには変わりない。 ただ、仕事への情熱と責任感は見事なもので、やっぱり大物だよな…と感じているところだ。 その後。 父親を見送って、母親がキッチンへ立ったのを見計らい、祐介はさやかに話を振ってみた。 「…でさ、相手、どんなやつ?」 「ん? 勤労学生」 「働いてるのか?」 「まあね」 もし苦学生なら、確かに妻子を抱えるのは厳しいかもしれない。 「そいつ、親いるの?」 「ご両親は健在よ。離婚されてるけど」 「え、そうなんだ」 「心配しなくても家庭環境は良好よ。本人も明るくて優しいし」 なのに結婚できない…いや、しないとはどういうことなのか、今ひとつ理解ができない。 「卒業まで待って結婚…とかも無理なのか?」 問いかけに、さやかは曖昧に笑うばかりだった。 ☆ .。.:*・゜ 2日後、23時という深夜に父親から電話がかかってきた。 「なに? なんかあった?」 夜半の電話などに良い知らせはあまりない。 しかも、メールはしょっちゅう寄越すが電話はさっぱり…な父親なのだ。余計に不安になろうものだが。 『いいか、祐介。落ち着いて聞け』 落ち着けという父親の声がすでに興奮マックスで、落ち着くのはアナタでしょうが…と言いたいところだ。 しかし、どうも『悪いこと』ではない感じた。 そう、良いことがあって大興奮…と言った鼻息の荒さだから。 「こっちは落ち着いてるけどさ」 『あ、あのなっ、『お嬢さんを下さい』ってなっ、さ、さやかの相手がっ』 「来たのっ?!」 きっと、さやかの話を聞いて、それでやってきたのだと思った。 こんなに素早く決断して乗り込んで来るくらいなら、結構骨のあるヤツなんじゃないだろうか…と、少し気分が軽くなる。 『かっ、必ず幸せにするから、けっ、けけけっ…こんっ』 電話の向こうはもう、しっちゃかめっちゃかだ。 「ちょっとっ、落ち着けってば!」 すっかり茫然自失の父親は、一応巷では『やり手』と言われてる、一部上場大企業のCEOのはずなのだが。 それにしても、その父親をしてここまで狼狽えさせる相手とはいったい…。 「なあってば! 相手、どんなヤツだったわけ?!」 『行かずだと思ってた娘が、まさかこんな大物釣り上げるとは〜!』 電話の向こうは半泣きのようだ。 「…ちょ…何言ってんの?」 釣果じゃあるまいし…と、祐介はため息をつく。 『とりあえずな、明日、母さんとさやかを連れてあちらにご挨拶に行くから、お前も大学で会ったらちゃんと挨拶するんだぞ、いいな?!』 「あっ、ちょっとっ」 言いたいことだけ――しかも肝心の情報を何1つもたらさずに――言って、父親は電話を一方的に切った。 ――なんだよ、今の。 大学であったらちゃんと挨拶って、わけわかんないし。…って、もしかして同じ大学…なのか? …とすれば、音大生ということになるが。 ともかく、父親ではダメだと思い、母親かさやか本人に聞くしかないと、携帯電話を持ち直したその時、着信音が鳴った。 ディスプレイには葵の名が。 普段、もっとも携帯で連絡を取り合うのは葵だが、それでも深夜に電話はしない。22時を回ればメールが常だ。 『あっ、もしもしっ、祐介?』 今し方、大興奮で訳のわからない電話をしてきた父親にも負けず劣らずの勢いで乗り込まれ、思わず息を呑んでしまう。 「なに? どうしたんだよ?」 『あのさっ、お父さんかお母さんから連絡あった?!』 どうして葵がそんなことを知っているのか。 「え、今あったけど…」 『じゃあ、聞いたんだ!? さやかさんと守が結婚するって!』 「…は?」 完全に、理解の範疇を超えていた。 『さやか』も『守』もよく知る『固有人名』だが、それが『結婚』という単語に結びつくことはない。全く以て。 『赤ちゃん、4月に生まれるって! 僕たちの甥っ子か姪っ子だよ!』 いや、赤ん坊のことは知ってるのだが。 『祐介、まさか知ってたの? 2人が付き合ってるって!』 もうダメだ。訳がわからない。 「葵、ちょっと待てって」 『え? あ、ごめんごめん。あんまり驚いちゃって、うちももう、大騒ぎなんだ』 それから、『まあ、落ち着け』と言って、葵から聞き出した内容はこうだった。 つまり、2人は去年の冬頃に、守のアルバイトの関係で知り合い、お互いどこかで見た顔だなと思ったら、『ああ、浅井のお姉さん!』『ああ、葵くんのお兄ちゃん!』ってことで、それからつき合いが始まったらしい。 そして今日、さやかから妊娠を告げられた守が、その足で浅井家へ乗り込んだ…というわけだ。 「…あのさ。で、結局うちの姉貴の相手って、まさか、守先輩?」 『…えっとさ、祐介、今までなに聞いてたわけ?』 思い切り呆れ声で言われたが、正直頭の中は真っ白だった。 よもや、まさか、ウソだろう…としか思い浮かばなくて。 ☆★☆ それからさらに数日後、祐介のマンションを仕事帰りのさやかが訪れて、ポツポツと思いを語った。 「守くん、まだ立ち直ってなかったのよね」 「え?」 「ほら、麻生くんの件」 多くの人間の心を傷つけてしまう結果になったあの一件は、今でも祐介の心の中に重く沈んでいる。 ただ、葵から漏れ聞く隆也のその後が、順調――地元の国立大学の法学部に現役合格して、美人の彼女もいるらしい――なのが救いだが。 「なんだか強がってるクセに痛々しくってね。つい、『次のイイコを見つけるまで、私が慰めてあげよう』って思っちゃったのよね。だから結婚しようなんて気、さらさら無かったわけよ」 物わかりの良いお姉様でいてあげられれば…と考えたのだが…。 「まあ、まさか守くんが女子もOKだとは思わなかったんだけど」 しれっと告げるさやかに、祐介は盛大に吹き出した。 「で、祐介。話は違うけど」 「なに?」 「あーちゃん、元気?」 また吹き出す羽目になった。 「いきなりなんだよ」 高校2年になった彰久とは、なかなか連絡が取り難いため、『指導OB』の立場を利用して出来るだけ母校へ赴くようにはしている。 けれど、2人で話をできるような環境ではなく、ゆっくり話せるのは長期休暇の間だけ…という状態だ。 だが、去年と今年の夏休みには母の実家――祖母の家――に連れて行って、1週間どっぷりと2人の時間を楽しんでいる。 素直で優しい彰久は、祖母にも可愛がられて、この夏も『来年も必ず来てね』と何度も何度も念を押されていた。 「まあ、なかなか難しいとは思うけど、ちゃんと連絡取り合って、できる限りの時間、一緒にいなきゃダメよ?」 「そんなこと…」 わかってはいるが、姉に説教されるのも何だかな…という感じだ。 「あんた、葵くんに振られてるんだから、今度はちゃんと捕まえときなさいよ」 『葵に振られた』と言う事実は、今や祐介よりもさやかのトラウマのようだ。 「姉貴こそ、身体気をつけろよ。仕事、やめる気ないんだろ?」 『仕事が恋人!』と豪語して憚らない男前なさやかだから、『辞める』と言う選択肢は端からないのだろうと思ったのだが。 「辞めようにも辞められないわね、今のところは。 取り敢えず、今かかってるプロジェクトが2月にアップの予定だから、それが終わったら産休もらって、あとは生まれてから考えるわ」 さやからしいなと、祐介は思った。 今やらねばならないことに全力を上げて、後でもいいことは、今は憂えない。 男勝りの突破力を持つ姉は、意外と良き母になりそうな気がした。 ☆ .。.:*・゜ 結局、2人がつきあっていたことは本当に誰も知らなくて、ただただ、周囲は唖然とするばかりだった。 香奈子は、40代でおばあちゃんになっちゃうの〜!と言いながらも、早速敷地内に2人が気兼ねなく新婚生活を送れるようにと、さやかに相談して『離れ』を増築する算段を始め、良昭は、孫はもちろんだが、娘が出来るのが嬉しいと葵に語った。 退院してきたばかりの悟は、いつのまにかちゃっかり『社会復帰』している守に『ある意味尊敬だな』と言いつつも、やはり嬉しさは隠せない。 自分の病気で、暫く暗い雰囲気に覆われていた桐生家に、明るい話題が出来てホッとしてもいる。 何よりも、家族が増えるのは嬉しい。 しかも素敵な女性とくれば、家の中が明るく華やかになるに違いないから。 昇はまさか『甥っ子か姪っ子』の顔を見られる日が来るとは夢にも思わなかったと大はしゃぎで、早くもベビー服を物色しに行く有様で。 けれど、悟にも昇にも、ある悩みが生じた。 かなり年上の『義妹』を、どう呼べばいいのか。 葵はちゃっかり『おねえさん』と甘えた口調で呼んでいるが、それはすでに2人が馴染みの間柄だからこそ…で、存在は知っていても面識の無かった悟と昇は、それもなんとなく気恥ずかしいし、一応『弟の妻』でもあるし。 結局、無難なところで、『さやかさん』と呼ぶことに落ち着いたのだが、やはり頼りがいのある『姉』が出来たことが、幸せな気分をくれた。 そして。 「まさか僕たちがこうなるとはねえ」 「だよなあ」 大騒ぎの『お嬢さんを下さい!』から1ヶ月後。 2年と少し前に、昇と直人が誓いを立てたあの日のように、桐生家の庭で両家の身内だけのささやかな式が行われて、桐生家と浅井家が姻戚となった。 どちらの両親もすでに旧知の仲だったこともあり、何から何までトントン拍子に進み、あとは小さな命が無事に誕生するのを待つばかり。 葵と祐介は、よもや自分たちが義兄弟――厳密には違うが――になるとは夢にも思わなかったと、賑わうガーデンパーティの片隅でコソコソと話し込む。 そこへ、本日の主役の片割れがやってきた。 「守、あんまり飲まない方がいいよ。強くないんだから」 「わかってるけどさ、今日はそうもいかないだろ」 「代わりに飲んであげるから」 頼もしい末っ子は、兄の手からグラスをひったくって呷る。 「あ、今日から弟なんだから、祐介って呼ぶからヨロシクな」 肩をガシッと抱かれて、『義兄弟宣言』されてしまえば、やはり嬉しさも一入で。 「こちらこそ、末永くよろしくお願いします。守先輩」 「おい、ちょっと待て」 「は?」 「先輩じゃなくて『お兄様』だろ?」 「はい〜?」 隣で葵が笑いを堪えている。 結局葵は『お兄ちゃん』と呼ぶことはなくて、守はそれを未だに根に持っている。 そのしわ寄せが祐介に行くであろうことは明白で、葵はいつ祐介が守のことを『お兄さん』と呼ぶか、悟や昇と『賭け』ちゃおうかな〜なんて、笑っている。 ――お母さんも一口乗りそうだな。 クスクス笑う葵を、祐介は恨めしそうに見るしかない。 「でも、あんな年上の男前姉貴をよくとっ捕まえてくれました。一族全員感謝ですよ」 嫁に行くとはよもや思わなかったと、浅井家の親戚はみな、声を揃えて言ったくらいなのだ。 「いや、それはもう、こちらこそ…だろ。あんな『キャリアバリバリ』のお姉様がこんな年下の若造のところに来てくれるなんてさ。ほんと、有り難いなって思ってるんだ。一時は捨てられそうになったことだし」 「「ええっ」」 あまりに意外な告白に、揃って大声を上げてしまえば、周囲が何事かと振り返る。 それを、何でもないからと視線を散らせて、2人がまた向き直ると、守は『はぁ…』とため息をひとつ落として話はじめた。 「はっきり言って俺、生活力には自信があったし、デビューしてからの仕事も順調だったし、絶対振られないって思ってたのに、いざプロポーズしてみたら『9才も違うから』って言われてさ。 断る口実かと思ったら、マジで理由はそれだけだって言うんだ。 そんなのどうしようもないじゃん。こればっかりは俺の努力でどうすることもできないし。 だから、それならいずれデキ婚に持ち込んでやろうと思ってたんだ。 でもさ、よもやひとりで育てたいって言われるとは思わなくって焦ったのなんの。 で、思わず『俺は自分の子供まで婚外子にする気はないよ』って言っちゃったんだ。 そしたら大泣きされちゃってさあ。あの言い方は我ながらマズかったと思うけど。ま、結果オーライってことで」 付き合っていることすら誰にも言わずにいて、そのくせ割とディープな恋愛をしているのは、さすが守の面目躍如だなあ…なんて、思わずにはいられない。 けれど――あまり強くないアルコールの所為かもしれない――守はポロッと胸の内を零れ落とした。 「今度こそ、絶対に失いたくなかったんだ…」 消え入りそうな呟きに、葵が祐介の顔を見る。 今度こそ、この傷が癒えますように…と、真摯に願いながら、葵の頭を軽く撫でて視線を上げてみれば、少し離れたところから、さやかが柔らかく微笑んでいた。 |
後編へ続く |